北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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あふいになり、ノーリグワーグムイから溢れ出た水は海へと流れた。馬に水浴びをさせたり、子どもが飛び込みをして遊んだりするところだった。話者によると、シナビ(砂辺)の人以外にも、近くのハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)やシナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)の人たちも使っていたのではないかと言う。i礁池.1ナービグムイ|ンマイームイから海に突き出した岬のすぐ先にあった。イノーが潮流にえぐられてできた。鍋の底に似た形をしていたので、ナービしおグムイと言う。潮が引いたときには深さ2m、直径10mぐらいあった。ボラなどの魚も入り込んでいた。子どもたちが泳ぎや潜りの練習をする遊び場所に使っていた。|マチグムイ|シナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)のマチグムイヌサチにある岩から10mぐらいのところにあった。広くて深いクムイで、夏ちゃたんになると北谷小学校の海水浴場として使われた。昭和3~ 4 (1928 ~ 29)年頃から石段を積むなどして少しづっ整備し、昭和6(1931) ヵ、んし年からは毎年、教師の監視のもとで、北谷小学校の児童全員が海水裕を行なっていた。てりゅヲだん昭和20 (1945)年頃には、日本軍がここで手摺弾を投げて魚を捕ったり、海水浴もしていた。現在は埋め立られている。→砂辺ヌ前屋取のマチグムイヌサチを見よ。11湧水井戸圃|ンブガー|屋号ウサーチカジヤングヮー(ウサー津嘉山小): 19の東側にあるわ湧き水。ホーヤーガーとも言う。縦型の洞窟に似た形をしているが、とお深さはなく、数段降りたところで人が通れないせまさになり、その先は湧き水で満たされている。水量が豊富だったが、戦前からすではいしょおがに飲料水や生活用水としては使われておらず、主に拝所として拝まれていた。子どもが生まれたときに、ンブガーの水を音をたてないように汲みけんふるみ、眉間に水をつけた。水を汲むときにプルプル震えると、子どもぜんそくわカ喝ずが端息になると言われた。若水もンブガーから汲んでいた。ニーブといってもバナナの葉を帽子のようなかたちにしたもので、それを337 -イノー:礁池。-クムイ:池。沼。・北谷尋常高等小学校:明治35 (1902)年に北谷尋常小学校と野国尋常小学校の二校が合併し、平安山ヌ上屋取に開校した。昭和16 (1941)年の「国民学校令」により、学校名が国民学校へと変わった。《ンプガー》-ニーブ:ひしゃく。

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