北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|ガクフチャーガマ|集落の北方向の海岸にあったガマ。卜ゥビラヌサチの北面にガマの入り口がある。乞食が住んでいた。ガマの上や周囲には墓がたくさんあった。ちゃたんかでなかでなゅうどうとう現在の北谷町と嘉手納町との境界線上で、嘉手納基地の誘導灯の下となる。1丘⑤グーフ|カーラの北側、マガヤーの西側にあった小さな岩。グーフムイ、グーフムイグヮーとも言う。グーフはニービのように堅くて黒っぽい石だった。グーフでは昭和18 (1943)年ぐらいまでモーアシビが行なわれソンパルヤードゥイていた。シナビ(砂辺)と千原屋取の両方から男女が集まっていた。グーフの近くにソーシギ(ソウシジュ)があった。話者によると、ぼうふうりんこのあたりに畑を持っていた人が、防風林として植えたのではないかと言う。また、グーフ近くの畑では、コープシ(ハマスゲ)やヤファタ(ムラサキカタバミ)などの雑草を抜いたら、ダーフの近くに捨てていた。現在は国道58号線に重なっている。|クシムイ|拝所のあるムイ。集落のクシにあたるのでクシムイと言う。鉄道ふせっが敷設される前は力一シヌシーとつながっていた。クシムイの東側けいびんと南側、3分のlくらいまで上ったあたりから軽便鉄道まで畑が広がっていた。イシグーが多い土地で、それほど畑作向きの土地ではイモマメなかったが、芋や豆を作っていた。クシムイの中や南側と西側の麓には墓があった。頂上にはウフシヌシーがある。戦後、クシムイの北側では米軍がコーラルを採掘していた。匡互2クシムイの南側で、ノーリグヮーの側にあったムイ。以前はカーふせっシヌボントンとつながっていたが、鉄道が敷設されたため、切り離された。ウタキとも言う。拝所であり、旧暦の朔日や十五日に屋号おがニードゥクル(根所)の家人が拝んでいた。ニードゥクル一家の者以外の人聞がここで木の枝を取ったり折ったりすると、崇られると言われていた。そのため、普通の人は、このウガンをシジダカサンおそと言って畏れ、拝むことはあまりなかった。しかし、集落の行事と335 圃ガマ:洞窟。ほら穴。-嘉手納墓地:沖縄本島中部にある怪東最大の米空軍基地。-ニービ:赤くざらざらした堅い土質。-モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむ。・千原屋取:現在の嘉手納町域にあった。エイサーが有名な集落だった。.ムイ:丘。山。・クシ:後ろ。・イシグー.さんご礁などを砕いた細かい砂利。・コーラル:サンゴの死骸が小石や砂利になったもの。??? 《クシムイ》-シジダカサン:神々しい。神の霊力が高い。型地などについて主~.:;ロノ。

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