北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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なかった。すなべ現在の砂辺区公民館から南西に100mほど行ったところにある。はいしょおがせいいき集落の南端にあるガマ。拝所として拝まれていた。聖域とされていたことと、ガマの中がせまかったため、中に入る人はあまりいなかった。旧暦8月15日頃にティラメーという拝み行事がある。あとうふイモ旧暦9月には、各家ごとで、重箱lつに揚げ豆腐、芋のてんぷら、魚などのごちそうを作って、それぞれ都合のいい日に拝みに行く。旧暦9月15日に行くが、9月いっぱいならいつでもよかった。マツティラの周辺は畑だった。入口の側には松が1本生えていて、その周りにはアダンが生えていた。とおすきまティラとクマヤーガマは、人がなんとか通れる程度の隙間でつながっていたが、十・十空襲の後、昭和19 (1944)年末頃にクマヤーガマを防空壕として使うために行なわれた工事のときに、その隙聞を広げてクマヤーガマとつなげた。せっし向う戦後、シナビ(砂辺)集落全域が米軍に接収されている聞に、ガマの入口が埋められ、わからなくなってしまっていた。その後、昭和31 (1956)年に返還されたが、貸住宅ブームがあったために、ティラ付近は全部敷きならされてしまい、そのまま家が建てられた。そのため、現在は住宅地となっている。平成元(1989)年にガマの入口が発見され、発掘調査が行なわれた。すなベ現在の砂辺区公民館から南西に100mほど行ったところにある。|トゥイヌヤーガマ|ンマイーの下にあったガマ。話者によると、南向きで風よけになるためか、よく鳥が出入りしているのを見たと言う。特に台風のときには風を避けるために鳥が入ってきていたと言う。1 0人ぐらい入れるガマで、冬など寒い季節はこの中でモーアシビをすることもあった。すなベ現在、ンマイーの南に作られた砂辺馬場公園内であるが、ガマの入口は埋もれている。|卜ゥルクガマ|ガンヤーの南側にあった小さな三角形のガマ。かつては護岸が岬の崖に突き当たるところにあった。屋号ミードゥンチ(新殿内)の墓があるところの崖にあたる。334 -ガマ:洞窟。ほら穴。《ティラ》-十・十空襲:昭和19 (1945) 年10月10日、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。-ガマ:洞窟。ほら穴。-モーアシビ・農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむロ-ガマ:洞街。ほら穴。

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