北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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かねムラ芝居の始まりを告げた。鉦や太鼓の音は、チュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)、ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)などの周辺の集落まで聞こえていた。ボントンは、下の方を石ではさまれていて落ちないようになっていた。話者によると、昔、ボントンでよそ者が宝物を探していたらボントンが落ちたので、シナビ(砂辺)の人たち総出で元に戻したという伝え話があると言う。内陸のほうからシナビ(砂辺)の海岸にかけて、いくつかの岩山が点在するが、それらはハブが噛みつくような形に並んでいて、カーシヌシーがハプの頭にあたると言う。ボントンはシナビ(砂辺)集落のフンシゲーシの役割をしていた。かでなけず現在は嘉手納基地内である。ボントンは半分ぐらいに削られ、根かんtまうしゃIfき元の部分しか残っていない。戦時中の艦砲射撃でなくなったのか、戦後、飛行場作りに使われたためか、定かではない。1洞窟ークマヤーガマ|集落の南端にあるガマ。クマヤーとも言う。話者によると、自然のままのガマで、そこで祈願や行事を行なうことはなく、とりたてて用事もないので中に入る人はめったにいなかったと言う。十・十空襲の後、昭和19 (1944)年末頃にクマヤーガマを防空壕として使うために清掃や工事が行なわれた。戦前から、クマヤーとおすきまガマとティラは、人がなんとか通れる程度の隙間でつながっていたが、その隙聞を広げてティラとつなげた。また、天井には6つの通ひなん気口が開けられた。300人余りの人々が避難し、1人の死傷者も出なかったと言われている。せっt,.うあいだ戦後、シナビ(砂辺)集落全域が米軍に接収されている聞に、ガマの入口が埋められ、わからなくなってしまっていた。その後、昭和31 (1956)年に返還されたが、貸住宅ブームがあったために、ガマ付近は全部敷きならされてしまい、そのまま家が建てられた。そのため、現在は住宅地となっている。平成元(1989)年にガマの入口が発見され、発掘調査が行なわれた。入口付近からヒスイ、替、そうしよ〈ひんt,.つどふうそうずがい貝の装飾品が出土したほか、風葬が行なわれていたので、古い頭蓋のうこつどう骨などがたくさん発見された。人骨は、ガマ入口隣に納骨堂を設けて移した。現在は、ガマ内には子宝に恵まれるというリューグーシン(子宮神)と病気を治す神様が杷られていて、鳥居や石碑が建っている。リューグーシンは女性がお産をするところなので男は入つてはいけないといわれているが、戦前はそのような話は伝わってい333 -ムラ芝居:集落の人たちが演じる芝居。.ボントン:丸い球。橋のらんかんの擬宝珠(ぎぼし)などを言う。-フンシゲーシ:地相が悪くて、悪い気が流れ込んでくるのを防ぐもの。・嘉手納基地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。-ガマ:洞窟。ほら穴。-十・十空襲:昭和19 (1945) 年10月10目、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。《クマヤーガマ》《クマヤーガマ》

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