北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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かでな道自体はさらに北へ伸び、現在の嘉手納町へと続いていた。道幅はとおl間半(2.7m) くらいで、馬車が一台通ることができた。11坂道|ユクヒラ|ミッチャヌヒラグヮーとも言う。屋号グンナン:72の側を通り、のぼ北東へ上っていく道。100mぐらいの坂になっていた。急坂であのぼるため、馬車だと上まで上ることができなかった。人も休み休み上るほどだった。上質の畑やモーがあり、モーアシビも行なわれていた。また、坂の上には墓がたくさんあり、ガンを運ぶときにはユクヒラを通っていった。ETしけいびん力一シヌシーとクシムイにはさまれた坂道。軽便鉄道の線路にふせっ沿って、南向けにゆるやかに下る坂になっていた。線路が敷設される前は、力一シヌシーとクシムイはひとつにつながっていた。クビリ(くびれ)のタナカ(真ん中)とも言う。クビリの西側、クシムイの裏側にあたるところは畑になっていた。かで現在、国道58号線と境になるフェンスに沿って走っている嘉手納基地内の道路である。1岩山δ |力一シヌシー|けいびんクシムイから軽便鉄道の線路をはさんで東側にあった岩山。鉄ふせっ道が敷設される前は力一シヌシーとクシムイはひとつにつながっていた。頂上付近に力一シヌボントンがある。かでな現在は嘉手納基地内にある。戦前よりも低くなっている。|力一シヌボントン|カーシヌシーの頂上あたりに、ボントンと呼ばれる大岩があっけいびんた。話者によると、軽便鉄道に乗ってクェ一(桑江)やイリー(伊礼)あたりから見ると人が座っているように見えたと言う。ボントよみたんンは読谷方面からも見ることができた。遠くから見ると人の頭くのぼらいだが、上ってみるとかなりの大きく、6人ぐらい座れるほどだった。インギーマー(ハリツルマサキ)がたくさん生えていた。シナビ(砂辺)でムラアシどがあるときは、12"'13歳の子どかねもを中心に15"'20名でボントンに出向き、鉦や太鼓を叩いて、332 -モー:原野。野原。原っぱ。・モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三昧線・歌・踊りなどをして楽しむ。・ガン:禽。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。-嘉手納墓地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。-ボントン:丸い球。橋のらんかんの擬宝珠(ぎぽし)などを言う。《カーシヌボントン》-ムラアシビ・歌・三昧線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。

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