北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
334/504

ヤンパルセン中国という意昧だと言われている。話者によると、昔は山原船がトーンナトゥに入っていたと言う。ガマの下に4基ほどの墓があり、戦後はさらに3基ほど増えた。トーンナトゥにある屋号ユナシチャ(与那下)の墓の警の下には金が埋められているという伝え言古もあった。i浜ナガパーマ|クィージヌサチから北へ向かい、ガクフチャガマのあたりまでの砂浜を言う。昭和初期、県によってセメント造りの護岸が建造された。力チラの下からンマイ一、ナガパーマにかけての範囲に造られた。カチラの下が昭和6(1931)年頃で、ナガパーマが昭和12~ぼうふうりん1 3 (1937 ~ 38)年頃に完成した。防風林としてモクマオー(トキワギョリュウ)がたくさん植えられていたが、昭和19 ~ 2 0 (1944 ~ 45)年にかけてすべて伐採された。伐採されたモクマオーは、クマヤーガマの防空壕に使われたり、米軍の上陸を妨害すかん[まうしゃけrきはfくるためにリーフに立てられたりした。しかし、米軍の艦砲射撃や爆だんはかい弾で破壊され、上陸直前の3月26日頃には一本も残っていなかった。沖縄戦の米軍上陸は、ナガパーマから始まった。かでなちょゆ現在は嘉手納基地の陸軍の貯油施設敷地内の、海岸沿いに走るパトロール用道路より海側である。かでな現在の砂浜は戦前より後退している。話者によれば、嘉手納基地建設のときに砂が採取されたためではないかと言う。|イチャーパーマグヮー|マカルーイリーグヮーヌサチからシナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)との境界近くまでを言う。話者によると、短い浜なのでイチャーパーマと呼んだと言う。昭和10 (1935)年前後に、シナビ(砂辺)あたりの浜で次々に護岸が作られた。イチャパーマダヮーもその1つだった。保安林もあった。子どもたちがよく遊びに行く場所の1つだった。すなべごがん現在の町営砂辺団地の北側あたりである。護岸の一部が残っている。jィノ-Bシナビイノ-1集落の西側の海に広がるリーフ。ハンジヤンイノーにクチがあり、そこから船で出入りできた。シナビ(砂辺)の人たちはこのイノーにイジャイに出ていた。主に子どもが海に入って、セーグワー(小さ330 _111原船:沖縄本島北部、俗称ヤンパルと中南部を往来していた交易船。・ガマ:洞窟。ほら穴。《間取り調査風景》-嘉手納基地:沖縄本島中部にある極東最大の米空箪基地。《間取り調査風景》-イジヤイいさり。火を使う、夜の漁。

元のページ  ../index.html#334

このブックを見る