北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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(そら豆)などを作っていた。ていりゅうじょ現在の「砂辺」バス停留所よりもやや北の位置である。|ウチャタイ|ウガンの東側で、ノーリダヮーの川沿いを言う。屋号グンナンの墓があった。話者によると、この墓には、ジーシガーミの中にクガニがあったという言い伝えがあると言う。また、アカルチ・クルルチという力自慢の兄弟が葬られているとも言う。そばまた、屋号グンナンの墓の側にムラパカもあった。アーチ型の門を持ち、そこをくぐると普通の墓の門があるという造りで、ジョンタバカと呼ばれていた。現在も墓は残っているが、アーチ門はなくなっている。話者によると、昭和63 (1988)年に道路整備を行なったときに、こせんl.つど墓のあたりからたくさんの古銭が出土したと言う。こわウチャタイは、幽霊が出そうだということで怖がられていた。現在も怖がられている。わたウチャタイの南西一帯で、ノーリダヮーを渡ったあたりを言う。イモムギ近辺は畑だった。作物は主に芋やサトウキビで、他に麦やトーマーミ(大豆)なども作っていた。|ムラウチ|村内。集落の屋敷地一帯を言う。ホーグマーチが点在し、その内側はすべてムラウチとされていた。話者によると、「ホーグは集落とハルの境」だと言う。匡ヨ[※編注:位向確のため地図上には記載一い]村境の松。集落を囲むようにして、ウフシヌシーの下から屋号マサーインガーグヮー(マサー犬)11小): 104の屋敷のあたりまで、松の大木が6~7本、点々と生えていた。この松はホーグマーチと呼ばれ、松の立っているところより内側がムラウチとされていた。話者によると、「ホーグは集落とハルの境」だと言う。ホーグマーチさいおんマツは、禁温松と同じくらいの大木だった。話者によると、昭和3~ 4 (1928 ~ 29)年頃まではあったが、切り倒して売ったかして、昭和6(1931)年頃にはなくなってしまっていたと言う。328 -ジーシガーミ.厨子護。洗骨後の遺骨を納めるためのもの。・クガニ:黄金。・ァカルチ・クルルチ:r砂辺に、グルンナーのアカルチ、クルルチという人がおったらしいですよ。その人は大へんな武士だったらしいですよ。その人が、「ここの風水は、このままではいけない。三つの岩のケーシを作ろう。」と言って、砂辺の高い岩のてっぺんに、約二トンほどもあるかなあと思われる石なんですが、その石をはるかてっぺんに上げてありましたよ。」*話者:砂辺出身の花城氏『北中城の民話]p303より・ムラバカ:集落の共同墓。《聞取り調査風景》-薬温松:三司官として農業・林業に大きな業績を残した禁温の指導によって植えられた松。

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