北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|マヤーヤ-1そぱグーフの側を流れる力一ラの南側にあったE。周囲はアカマチイモアワクーの良質な畑で、サトウキビ、芋、粟、マージン(もちきび)なかこどを作っていた。松、ソテツ、アダンなどで固まれていた。はふ3~4基の破風墓があった。マヤーユーレイが出るという話もあった。かでなちょゆもくにんこうさくち現在、嘉手納基地の陸軍貯油施設の南端、黙認耕作地があるあたりであるが、マヤーヤーは現存していない。|サークヌトー|グーフの南側を流れる力一ラ沿いの、低くなっている一帯を言{まうこりんう。畑の防護林として植えられたソーシギ(ソウシジュ)が生えているあたりである。流れが運んでくる土が溜まり、ブエージャーの上質な畑地になっていた。|卜ーバル|力一ラ沿いの地域で、マガヤーからグーフのあたりは、川の南岸が周りの土地より低く、クブンになっていた。そのため、この一帯を卜ーバルと呼んでいた。土質はアカマチクーで、上質の畑地だっイモダイズた。サトウキビを主として、芋、大豆なども作っていた。近くにはぽうごりん畑の防護林として植えられたソーシギ(ソウシジュ)が20本ほど生えていた。|ナカシェーラ|集落の北側一帯を言う。ほとんどが畑地で、良い土質だった。ユきゅうこんリ(百合)を栽培し、球根を出荷していた。かでなちょゅはふ現在の嘉手納基地の陸軍貯油施設内の一基残された破風墓のあたりである。墓は屋号力ミーイリーグワー(亀伊礼小)のものであこうばいる。墓を北面にして、勾配になったところから西側をナ力シェーラへいたんきふくと言う。戦前は平坦な土地だったが、現在は少し起伏がある。範囲はそれほど広くない。|クィージ|イモクィージヌサチあたりを言う。一部、芋を育てる畑があった。|ア力ハガーバル|アカハガーとも言う。力一シヌボン卜ンの北東側でクビリの近くの地域を言う。赤土がむき出しになるほど禿げあがっていた。面積はあまり大きくなかった。シナビ(砂辺)から見るとやや高い位置にあった。芋、サトウキビ、トーフマーミ(大豆)、トーマーミ327 -アカマチクー:黒昧がかった赤土。サラサラしている。-破風墓:破風型の屋根で、岩壁を背にして造られている墓。圃マヤーユーレイ:ネコの幽霊。-嘉手納基地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。・黙認耕作地:米軍基地内で米軍が緊急に必要でない土地を、地主に一定条件のもと、農耕などに使用することを認めた地域。-フェージャー:薄黄色のやわらかい土。ねばりが少なく、耕しやすい。フェージャーで作った芋は美昧しい。-クブン・窪地。・アカマチクー:黒昧がかった赤土。サラサラしている。-嘉手納基地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。・破風墓:破風型の屋根で、岩壁を背にして造られている墓。《聞取り調査風景》

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