北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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う。竹などを杭のように打ち、持ち主がいることを知らせた。現在そんゅうちは村有地となっているところが多い。カヤ(茅)はクェーガヤーとかちくごやしたいひ言って、家畜小屋に敷き、その後、畑の堆肥を作るのに使った。屋根を葺くためのカヤ(茅)は、昭和年代からは他集落からヤンパルダキガヤ(リュウキュウチク)やマカヤ(チガヤ)を買い入れて使うようになっていたので、シナビ(砂辺)集落内のガイモーのカヤ(茅)はあまり使われなくなっていた。集落から外に出るときは、主に徒歩だった。テツドーを使うのはムンチューのシーミーや出兵の見送りをするために那覇に行くときくらいだった。平安山駅から那覇までは38銭だった。学生割引では4か月分の定期が11円で買えた。他の乗り物には路線パスがあり、那覇から名護までのケンドーを運行していた。しかし、普通はパスに乗ることもあまりなかった。話者の1人は、昭和16 おおぎみそんたみなとでんぷん(1941)年頃に大宜味村田港の澱粉工場建設作業のために、ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)からパスに乗って、名護にかでな行った経験があると言う。芝居を見るときも、嘉手納の劇場へ徒歩で出かけていたと言う。[集落で行なわれる主な年中行事]とおそな.旧暦8月9日<力ンカー>:牛の内臓に火を通したものを供えてきがんみけんわ祈願を行なう。岩か木などに牛をつるしあげ、眉聞をユーチで割って屠殺した。屠殺する場所は決まっているわけではなく、アガリジョーモーグヮ一、ウシモ一、浜などで行なわれた。祈願が終わると、供えものをユーナ(オオハマボウ)の葉に入れてみんなで食べた。肉はチュマジンといって、2~3斤(1.2~1.8kg)ぐらいずつ小分けにして、各家庭に割り当てた。骨は集落の入口であるアシビとおナーの前の通りと、出口である屋号ミードゥンチ(新殿内): 103を過ぎたあたりのガジマルやウガンジュに立てかけるなどして魔よけとした0.旧暦8月15 ~ 1 7日<ムラアシビ>: 8月15日はンマイーでししまいちょうじゃウフスー前座として、獅子舞や「長者の大主」といった決まった演目を行なった。16 ~ 1 7日にアシビナーで行なうのが本番で、組踊りや芝居ゅうちどりぶようなどの演劇や、アヤグやタ干鳥といった舞踊など、さまざまな演目を行なった。芝居は3日間という取り決めだったが、少しづっ日延べして、1か月近くやることもあった。せっしゅう集落域は米軍に接収されていたが、昭和29 (1954)年に戻ることができた。アシビで有名だった集落だけあって、現在も「砂辺ぬ浜まつり&十五夜あしび、」を開催し、にぎやかである。323 -クェーガヤー:堆肥用の茅。-ムンチユー:門中。父系血縁による一族。主に祖先祭杷を行なう集団。・シーミー:清明祭。旧暦3月に行なう祖先供養の行事。・新垣平尾パス・戦前の乗合自動車。那覇~名護聞を運行。-カンカー:集落に悪疫が入ってくるのを防ぐための行事。・ユーチ:小型のおの。手おの。-ウガンジユ・拝所。・ムラアシビ:歌・三昧線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居、祭りなど、仕事を休んで行なう演芸-娯楽。-長者の大主:集落の行事のなかで演じられる祝儀舞踊。・組踊り・沖縄独特の伝統楽劇。・ァヤグ:明治時代にできた踊り。宮古民謡調のリズムで、男女が集団で踊る。・タ千鳥:昭和初期にシナビ(砂辺)に伝えられた群舞。男女と千鳥役の全12人で踊る。《砂辺ぬ浜まつり&十五夜あしび》

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