北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
326/504

シナビ(砂辺)北谷町域北端の海岸沿いに広がった集落。戸数は105軒で、そのうちカーラヤーは9軒だった。景色の良いンマイーやアシビなどで有名な集落であった。集落は屋号アガリジョー(東門): 49から屋号クシヌチカジャンとおさかい(後ヌ津嘉山):56の前を通る道を境にして、南側がメンダカリ、北側がイリンダカリの2つに組分けされる。さらに、メンダカリはメーチンジュとメーナカテンジュに、イリンダカリはイリナカテンジュとイリチンジュに分けられていた。。市うき,うこ〈ゆちいき集落の成立は古く、『琉球国由来記』に名前がある。もともとは品ねんそんたまく寸〈そん念村・玉城村からながれてきたと言い伝えられている。イモ主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。その他、ユリ(百合)の栽培も一時期行なわれていた。海に近いが、それぞれの家庭でイジャイをするぐらいで、船を持っている家はなく、漁師もいなンンパルヤードゥイかった。しかし、グングヮチャーのときは、千原屋取から船を借りふなあそて船遊びをした。商店が、屋号ガジマルシチャ(ガジマル下): 5、屋号リンドーグワー(林堂小): 74、屋号チチンミグヮー(月見小):6、屋号ウィーヌインガー(上ヌ犬)11):60、屋号ニシイリーグヮー(西伊礼小): 75の5軒あった。屋号ガジマルシチャ(ガジマル下)は、日用品を扱う雑貨屈でシナビ(砂辺)では一番大きな屈だった。酒、そうめん、カチューグヮ一、アミグヮ一、メリケン粉、石油などを売っていた。屋号ニシイリーグヮー(西伊礼小)では酒だけを売ったI~ニせんI~いせいていた。塩や煙草は専売制で、シナビ(砂辺)には売っている屈はなかった。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)にはあった。サーターヤーが3か所あった。イリチンジュのサーターヤーは屋号カマーチニングワー(蒲知念小): 99の東側、イリナカテンジュのサーターヤーは屋号メーヌチャングワー(前ヌ喜屋武小):64の南側、メーチンジュとメーナカチンジュのサーターヤーは屋号メンかでなティーラ(前照屋): 17の北側にあった。嘉手納製糖工場へ出荷することもあり、そのときは人が担いで徒歩で運ぶか、馬車で運んでいた。そ1;:マーイサーは、ンマイーとナカミチの側にあった。ナカミチのほうのマーイサーは、綱引きのカヌチを抜くところの道路脇に置かれていた。小さいのが40斤(24kg)で、大きいのは90斤(54 k g)ぐらいあった。小さいマーイサーは寄附され、現在、町立浜がわ川小学校にある。そぱ力一シヌボントンの北側、ケンドーの側にマカヤ(チガヤ)やゲーン(ススキ)がたくさん生えている場所があった。ガイモーと言322 -カーラヤー:瓦ぶきの家。・アシビ:歌・三昧線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。.~琉球園由来記~:琉球国の地誌。全21巻。-イジャイ:いさり。火を使う、夜の漁。・グングワチャー:旧暦5月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を聞き、余興をして楽しむ0・千原屋取:現在の嘉手納町域にあった。エイサーが有名な集落だった。-ヵチユーグワー:かつおぶし。・ァミグワー:飴玉。・メリケン粉:小麦粉。-サーターヤー:製糖小屋。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。-マーイサー:集落の広場などに置いてある大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。・ヵヌチを抜くところ:綱引きのときに、雄綱と雌綱のつなぎ目に棒を通す場所。綱引きの中央。-ガイモー:屋根を葺くのに使う茅を生やしていた野原。

元のページ  ../index.html#326

このブックを見る