北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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1礁池.lマチグムイ|屋号マカルートゥキシグヮー(真苅渡慶次小): 1の先にある岩から10mぐらい行った海の中にあった。大きいイノーだった。てりゅヲだんと日本軍が子楠弾を投げて魚を捕ったり、水浴びをしたりしていた。1掘井戸⑨ |イーヌ力一|共同井戸。2か所あったうちの1つ。屋号クシヌアラグシク(後ヌ新城): 27の西側角に位置しており、深さ9尋(13.5 m)ぐらいのクルマガーだった。飲み水として利用するのはこのイーヌカーだけなので、集落の人たちみんなで使っていた。はいしょおが拝所でもあり、旧暦2月2日のニングヮチヤーのときに拝んだ。現在は住宅が建っているため、正確な場所はわからない。合紀所が作られ、サーターヤーヌ力一、個人井戸とともに杷られている。|サーターヤーヌ力一|共同井戸。サーターヤーの東側にあった。サーターヤーで使う水を汲むところだった。水は少なく、製糖時期にしか使わなかった。合問所が作られ、イーヌ力一、個人井戸とともに杷られている。1製糖小屋⑫ サーターヤー|共同製糖小屋。屋号力一二一()11恨): 14の東側の広場にあった。150坪ぐらいの広さがあった。屋号力一二一()11恨)、屋号ウフヤーカリカルグワー(大屋嘉手苅小)、屋号ウフヤートゥキシグヮー(大屋渡慶次小)、屋号チャングワー(喜屋武小)、屋号シマブクグヮー(島袋小)の5軒で共同利用していた。かでなその他、ほとんどの家は嘉手納製糖工場へ出荷していた。工場から馬車を借りてサトウキビを運んでいた。11拝所禽|ビジュjレ|屋号ナーカカリカルクヮー(中嘉手苅小): 18の西側の畑にあり、後ろのハルミチに近い場所にあった。旧暦2月2日のニングヮチヤーのときに拝んでいた。1 960年代に、ビジュル、サーターヤーヌ力一、イーヌ力一、個人井戸を合記した。現在も、旧暦2月2日のニングヮチャーのときに豊作祈願、健康祈願をしている。318 《聞取り調査風景》圃クルマガー滑車につるべ縄をかけて水を汲む井戸。-ニングヮチヤー:旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。《合杷所》-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。-ビジュル:霊石として杷られる石0・ハルミチ・農道。畑の中の道。《ピジュル》

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