北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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1郡道|ガッコーミチ|学校道。集落内の中心を東西に走る道を言う。海辺の屋号タケ一シグワ一(高I江工排訓掛洲|卜H、νレり、ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)のナカミチへと続き、学校に至る道。→平安山ヌ上屋取のナカミチを見よ。1村道|ウフドーミチ|ノーリグヮーのあたりから、屋号チャン(喜屋武): 29や屋号サンとおラーカリカルグワー(三良嘉手苅小): 20の前を通り、鉄道までの道を言う。鉄道から東側はハンジャヌウィーミチと言う。→平安山ヌ上屋取のハンジャヌウィーミチを見よ。i坂道ガッコーミチの一部、イーヤールイとシチャヤールイの境界あたりの坂。海に向かい、屋号ナーカカリカルグワ一(中嘉手苅小): 18 を通りすぎるあたりから屋号力一ニー(J11恨): 14の前までが10mほどの長さのゆるやかな坂道になっていた。途中からふたまたに分かれていた。11鉄道|ケービン!軽便鉄道。県営鉄道嘉手納線のことを言う。汽車に乗るときにへんざんは平安山駅を利用していた。話者によると、お金がなかったので、かでな仕事や買い物で嘉手納まで行くときには線路沿いに歩いて行くことが多く、たまにしか利用しなかったと言う。話者の1人は、祖父に連れられて那覇まで行くときに2回ほど乗ったことがあると言う。1岩山lマチグムイヌシーグヮ-1屋号マカルートゥキシグヮー(真苅渡慶次小): 1の先にある岩。ほあんりんおおごがんシーに上る階段が3段ほどあった。シーは保安林で覆われ、護岸のあるところはモクマオー(トキワギョリュウ)が植えられていた。イノーが大きく、旧暦6~8月頃のスクが寄る時期には集落のみんなで、エンダーでスク捕りをした。モクマオーの護岸あたりなどの高い所から、スクがやって来るのがよく見えた。316 -北谷尋常高等小学校:明治35(1902)年に北谷尋常小学校と野国尋常小学校の二校が合併し、平安山ヌ上屋取に開校した。昭和16 (1941)年の「国民学校令」により、学校名が国民学校へと変わった。-鉄道:沖縄県営鉄道嘉手納線《間取り調査風景》-沖縄県営鉄道嘉手納線:嘉手納・野国・平安山・桑江・北谷-大山・真志喜・大謝名・牧港・城間・内閣・安里・与儀・古波蔵・那覇の15駅があった。-シー:岩山。-ィノー:礁池。・スク:アイゴの幼魚。・エンダー:魚具の一種。

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