北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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-力一ラヤー・瓦ぶきの家。北谷町域西側、東シナ海に面した屋取集落。戸数は29軒で、のうちカーラヤーは、屋号カーニー(J11根)、屋号ウフヤートゥキ(大屋渡慶次小)、屋号ウフヤーカリカルグワー(大屋嘉手苅小)、屋号ナカドゥマイ(仲泊)の4軒だった。また、半分だけ瓦ぶきという屋号カミーチシャパ(亀喜舎場)もあった。(オオハマボウ)そ(砂辺ヌ前屋取)シナビヌメーヤールイシグヮー屋敷囲いにはガジマル、利用することが多かった。集落は2つに組分けされる。東側のテツドー寄りの15軒をイーヤールイと言い、西側の海岸寄りの14軒をシチャヤールイと言っなどをユーナフクギ、た。しゅりしぞくつらくにがみや首里の士族に連なる家が多いが、国頭の屋古から移住してきた家二--《間取り調査風景》もあった。主業は農業で、主に芋やサトウキビなどを作っていた。屋号マカルートゥキシグヮー(真苅渡慶次小)と屋号ヤマートゥキシグヮー(山渡慶次小)の2軒が漁業を営んでいた。馬車を所有していたのは、屋号力一二一(川|恨)、屋号チヤングヮー(喜屋武小)、屋号ウフヤートゥキシグワー(大屋渡慶次小)の3軒であった。シナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)のムラガーは、イーヌカー-ムラガー:集落の共同井戸。-力一.井戸。-サーターヤー:製糖小屋。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。・ビジュル・霊石として杷られる石。とサーターヤーヌカーの2か所だったが、飲み水として利用していたのはイーヌ力ーだけであった。個人のカーは、シチャヤールイに9軒の計14軒あった。シチャヤールイの力ーは浅く、2尋(3m)ぐらいの深さしかなかった。潮が混ざるので、海の近くには力ーはなかった。戦後しばらくは水道がなかったが、外人住宅が造られるようになってからは米軍が水道を号|いた。サーターヤーは1か所のみで、屋号力一ニー(川根): 14の東側にかでなその他の人たちは嘉手納の製糟イーヤールイに5軒、-ニングヮチヤー旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。-マーイサー:集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。その隣川豊凶拝を>ルーjユ一一ン、プビワクユ、ン力/312 あった。5軒で共同使用していた。工場へ出荷していた。拝戸庁はイーヌ力ーとビジュルの2かPJTであった。おがグヮチャーのときに拝む場所であった。現在はイーヌ力一、サーターまつごうしLょヤーヌ力一、個人井戸の3つを杷った合肥所がある。にはビジュルの洞もある。マーイサーは100斤(60kg)のものが2つあった。屋号ウフヤートゥキシグワ一(大屋渡慶次小): 9の前の道と、屋号ウフヤーそば力リカルグワ一(大屋嘉手苅小): 10の側にあった。[集落で行なう主な年中行事].旧暦2月2~4日<ニングヮチャーさくきがん作祈願の祭り。どちらもニンまた、サーターヤーヌ力一、イーヌ力一、

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