北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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1橋閃μ¥シlメーヌ卜ーとケンドーが交差するところに架かる橋。11学校命|ガッコー|北谷国民学校。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)ハンジャヌウィーガツコーとも言う。通学には主ににあったので、ケンドーを利用していた。いしぶたいちゅうりゅう戦時中、日本軍の石部隊が駐留していた。そのため、生徒たちはサーターヤーに集まって勉強していた。1製糖小屋⑫ |サーターヤー|共同製糖小屋。集落に6か所あったうちの1つ。屋号ジルーアシンミ(次郎安次嶺): 8の南側にあったサーターヤーである。屋号ジルーアシンミ(次郎安次嶺)、屋号アガリイトゥムラグヮー(東糸村小)、屋号ジラーアシンミグワ←(次良安次嶺小)、屋号シターアシンミグワ一(思太安次嶺小)、屋号コーフーアシンミグワー(工夫安次嶺小)、屋号カナーイトゥムラ(加那糸村)の6軒で共同使用していた。じぬしかちんもたきぎ地主への借り賃は、砂糖を作るときに燃やした薪の灰であった。たいひかんり灰は堆肥となるため、きちんと管理されていた。|サーターヤー|製糖小屋。集落に6か所あったうちの1つ。屋号サンルーアシ(三良安次嶺): 10の南側にあったサーターヤーである。個人所ンミ有だった。|サーターヤー|製糖小屋。集落に6か所あったうちの1つ。屋号タルーヒジヤグワー(樽比嘉小):31の南側にあったサーターヤーである。個人所有だった。|サーターヤ-[共同製糖小屋。集落に6か所あったうちのlつ。屋号ウシーアンンミ(牛安次嶺): 38の南側にあったサーターヤーである。屋号ウシーアシンミ(牛安次嶺)、屋号力ミーアシンミグワー(亀安次嶺小)などで共同使用していた。304 -北谷尋常高等小学校:明治35 (1902)年に北谷尋常小学校と野国尋常小学校の二校が合併し、平安山ヌ上屋取に開校した。昭和16 (1941)年の「国民学校令」により、学校名が国民学校へと変わった。-石部隊:第62師団独立歩兵第1 2大隊の通称。《間取り調査風景》品副品誼韓盟理思圃r一一一一一-E亙ーーーーーーー冒""""函圃園田《現地調査・嘉手納基地内》

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