北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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話者によれば、昼間は繁った松の下が休憩所として良かったと言う。2~3名で抱えるほどの大きな松があったが、その松は戦争のときに日本軍が切って防空壕作りに使ったらしい。11県道|ケンド-1県道。道の両側に松が生えていたが、戦争時に日本軍が切って防空壕作りに使ったらしい。かでなチュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)から嘉手納までは、ケンドーを歩いて1時間ぐらいかかった。ガッコーへの通学路として利用していた。1馬車道|バシャミチ|馬車道。屋号ミチパタイシチヤーグワ一(道端石川小): 14から屋とお号イシチャーグヮー(石川|小):45の前を通って、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)へ行く道。小さい馬車道だったので、馬車のすれ違いはできなかった。VYシャミチ|馬車道。屋号カジマヤーアシンミグワ一(力ジマヤ一安次嶺小): 12から屋号アガリイトゥムラグワー(東糸村小): 3の前を通る道。小さい馬車道だったので、馬車のすれ違いはできなかった。1岩山島|ウカマジー|集落の南側にあった岩山のlつ。ウカマジーの南側には、財道議あなのようなほら穴があった。幅2間(3.6m)、奥行き10間(18m)ほどの大きさだった。話者によれば、昭和2(1927)年頃まではウカマジーには昔の人の骨があったが、教材にするためなのか、沖縄中の小・中学校が取っていって、いつの聞にか全部なくなっていたと言う。かでな現在は嘉手納基地内であるが、戦前に日本軍によって作られた詣だいあと台の跡が残されている。|ハーイジー|集落の南側にあった岩山のlつ。ハーイのように尖っていた。302 《間取り調査風景》《ウカマジー》-嘉手納墓地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。-ハーイ:針。

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