北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
297/504

瑞慶覧朝蒲氏が大正15 (1926)年から昭和7(1932)年まで校長を勤め、戦争前は稲嶺盛昌氏が勤めていた。コの字型で4校舎あった。北側の新しい校舎東側の壁には棚がごしんえいかかお宮のように作つであり、御真影が掲げられていた。新校舎は教室の壁を外して講堂として使うことができた。そのときには御真影の方を向いて整列した。話者によると、講堂にいる聞は顔を上げるきびしかことができず、顔を上げると厳しく叱られたと言う。校区に入っていた集落は、イリー(伊礼)、ハンザン(平安山)、ハマガー(浜j11)、シナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)、シナビ(砂辺)、ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)、チュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名ヌザトゥシ〆パルヤードゥイ小屋取)、野里、千原屋取、そしてハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)だった。ガッコーの南角の鉄棒の近くに、マーイサーがあった。ナカミチとケンドーの交差する角にデイゴの木があった。戦時中、ガッコーの校舎は日本軍が使い、生徒は飛行場作りに駆り出された。ハマガ-(浜j11)の聞取り情報によると、昭和18'"1 9 (1943 '" 44)年の夏頃、ハマガー(浜j11)のサーターヤーモーに茅ぶきの教室を作り、1"'3年生の低学年児童はそこで勉強したと言う。ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)の低学年児童は、それぞれ集落のジムスで授業を受けていたと言う。十・十空襲後は、ほとんど授業は行なわれなかった。→上勢頭屋取・下勢頭屋取のジムスを見よ。1建物|コーチョージュータク|校長住宅。ガッコー敷地の東側に隣接していた。昭和9(1934) ぞうち〈年にガッコーが増築されたときに一緒に作られた。1製糖小屋⑥ サーターヤー|共同製糖小屋。屋号力一ヌハタ(j11ヌ端): 44の北側にあった。最初はハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)全体で使用していたが、のちにクシグミが所有するようになった。屋号タルージッチャク(樽勢理客)、屋号カーヌハタ(川ヌ端)、屋号カマーチパナグワー(蒲知花小)、屋号クルマーチパナグワー(車知花小)、屋号クシヌジッチャク(後ヌ勢理客)、屋号ユージ(与儀)、屋号ウシーアラグシク(牛新城)、屋号クシヌタルージツ293 -御真影:学校などに配布された天皇皇后の写真。天皇皇后の分身として、丁重に扱われていた。-野里:現在の嘉手納町域にあった集落。野里馬場があった。・千原屋取:現在の嘉手納町域にあった。エイサーが有名な集落だった。-マーイサー:集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。-十・十空襲:昭和19 (1945) 年10月10目、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。《間取り調査風景》

元のページ  ../index.html#297

このブックを見る