北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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(三間幅の真四角)だったのではないかと言う。質草として、夏はがんきん冬物を入れ、冬は夏物を入れていた。元金を払えない人は利子だけ払い、質草を入れ替えていた。昼間は行かず、朝早くか、夜出入りだいはんじようきんゅうきかんしていた。大繁盛していた。村民にとって、一番身近な金融機関であった。当時、郵便局長の給料が12円程度で、10円ある家は金持ちだった。こさくのうかしえんせいさく昭和12 (1937)年、小作農家支援政策として、政府の施策を受け、質草以外の貸し金業務を質屋に行なわせた。農民が土地を購入する場合、購入代の80%を借りることができた。業務担当は当初、崎原盛栄氏が行ない、山川長栄氏に引き継がれた。質屋は、昭和10 (1953)年までに県下で2市10町村に設立されていた。|ノーミンドージョ-1ちゃたんのうじくんれんじよちゃたんそん農民道場。北谷農事訓練所の通称である。北谷村が計画し、昭和1 4 (1939)年に作られた。ヤクバ敷地の北側にあった農業指導機関である。運営は農会が行なっていた。敷地は200坪ぐらいで、一部を研修農地にしていた。シナビ(砂辺)の方にも研修用地があった。建物は平屋の瓦ぶきで学校の3教室ぐらいの広さがあった。ぎし吻イモ農業指導の技手がいて、村民に砂糖の製造方法、芋の植え方、ユリ(百合)の栽培方法などの指導をしていた。当初、主任は農業技手の長嶺由松氏で、他には吉田実男氏が県駐在の農業技手であった。研修生は村内の農業青年から、各集落の農会支部長の推薦で決められていた。研修は年2回程あり、1回に10 ~ 1 5名を定員としていた。研修中は1週間寝食をともにし、費用は全額北谷村負担であった。イモうねか芋の植え方には畝立て植えと平植えの2つの方法があった。嘉でな手納農林学校での品評会に、畝立植えの芋を出品して入選したことLょうオH、がある。サトウキビは25号(12 2 5号)を奨励していた。昭和19 (1944)年の戦争前まで農業指導を行ない、多くの研修はしゅりくにがみひなん生を輩出していたが、十・十空襲後は、那覇や首里から国頭へ避難する人たちの宿泊所にあてられるようになった。11学校命|ガッコー|ちやたんじんじよう北谷尋常高等小学校。昭和16 (1941)年に北谷国民学校となった。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)の人たちはガッコーと言い、近隣の人たちはハンジャヌウィーガツコーと言っていた。292 《間取り調査風景》-嘉手納農林学校:沖縄県立農林学校。国頭農林学校がその前身。大正3(1916)年に嘉手納に移設された。-十・十空襲:昭和19 (1945) 年10月10日、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。園北谷尋常高等小学校:明治35 (1902)年に北谷尋常小学校と野国尋常小学校の二校が合併し、平安山ヌ上屋取に開校した。昭和16 (1941)年の「国民学校令」により、学校名が国民学校へと変わった。

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