北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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1岩山δ lクンディヌシ-1ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)とシチャシードゥヤードウイ(下勢頭屋取)とのおよその説、になる岩。周囲の土質はアカマチクーで、上質な畑であった。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)の人たちの墓が多くあった。かでな現在は嘉手納基地内である。シーは残っているが、木々が生い援り、岩肌は見えなくなっている。|ヤマグヮーン二一|集落の北西方向、カーシヌボントゥーの南側にある小高い岩山。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)の人たちの墓があった。大きな墓が2基あり、そのうちの1基であるカーミナクーパカは屋号サカヤ(酒屋)、もうl基のヒラフチパカは屋号タルージッチャク(樽勢理客)の墓だった。他にも、屋号カマダーウンチュー(蒲太ウンチュー)、屋号アラグシク(新城)、屋号カミーアラグシクグヮー(亀新城小)の小さな墓が3基あった。大きな墓は36坪ぐらいの広さがあり、墓の内部はニチンクサ←ク(奥行2間×幅9尺/3 . 6 m X 2. 7 m)で、棚は5段、あるいは7段あった。大きな力一ミナクーパカのボージは、1寸5分のゆるやかな勾配であった。話者によると、その屋根の上でモーアシビをしたと言う。50"-'60名ぐらい上がれるほどだった。周囲を含めると100坪ぐらいの広さがあった。大正3(1914)年生の話者が生まれる以前からあった墓である。あまりにも立派な墓だったのおおかくで、役人に見つからないようにと、カヤ(茅)で墓を覆って隠したという話があった。ジューグヤ旧暦8月15日の十五夜にはここにタマガイを見に行った。かでな現在は嘉手納基地内である。北に向かい、国道58号線の東側沿いにある。戦前は岩山だったが、現在は木々で欝蒼としている。|ダシタンニー|の1.集落の南西方向にあった岩山。シーの頂上に上る道が東側にあった。頂上は平坦で広く、フナウクイをする場所であった。船がはざんぱみさきかく那覇を出て、残波岬に隠れるまで見えた。本土に出稼ぎに行く人などを太鼓をたたきながら、ダンジユカリユシで見送っていた。サングヮチャーには、子どもたちl人1人に重箱があった。そのへいたん重箱を持って、グシタン二ーの頂上の平坦なところへ行き、そこでご馳走を食べた。「ウジューヒラシーガンジヤン(お重を聞きに289 -アカマチクー:黒昧がかった赤土でサラサラしている。-嘉手納墓地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。-シー:岩山。-カーミナクーパカ:屋根が亀のような形をした墓。・ヒラフチパカ:屋根が平板な墓。.ボージ:屋根。・モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむ。-タマガイ:凶兆。火の玉が家の上に高く上がったりすること。・嘉手納墓地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。・シー:岩山。・フナウクイ:見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。・ダンジユカリユシ:船出のネ兄い歌。身内のものが旅をするとき、一族が集落の広場あるいは高台に集まって航海の無事を祈願し、これを歌った。・サングワチヤー:旧暦3月3日にごちそうを持って浜辺へ行き、身を清め、楽しく遊ぶ行事。子どもの健康祈願として、重箱のごちそうを食べさせる例もある。

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