北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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シェークーウンチュー(大工ウンチユ一): 8から小高い岩山で、あるヤマグヮーンニーのところまでの道を言う。道幅は6~8尺(1.8~とお2.4 m)ぐらいあった。馬車が通れる道だった。|ヤードゥイミチ|集落内を北向きに走る生活道路。2か所あるうちのlつ。屋号ニーファ(禰覇): 26から屋号ユージ(与儀): 59までの道を言う。とお道幅は6~8尺(1.8 ~ 2.4 m)ぐらいあった。馬車が通れる道だった。一ヨ一! ! 晶一ご一: 生一七一クンディヌシーの北側を通る農道。馬車が通れないほどの小さい道だった。シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)からシナビ(砂辺)へと続く道。シナビ(砂辺)の人たちが山へ薪取りに行くのによく利用していた。i坂道ヤクバヌメーヌヒラ|ハマガー(浜)11)の屋号ハマガーグヮー(浜川小)からハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ土屋取)の屋号ヒラグヮーニー(坂小根): 6までの600m余りの坂道。ケンドーの一部で、ヤクバの前の坂道をヤクバヌメーヌヒラと言う。急な坂で、真っ直ぐではなく、曲がりくねった道だった。他の集落の人たちはハンジャヌウィービラと言っていた。1鉄道|ケービンミチ|けいびんかでなかいつう軽便道。県営鉄道嘉手納線。大正11 (1922)年3月28日開通。きどうふせっ大正10 (1921)年頃、軌道敷設工事が行なわれていた期間には、うんぱん子どもたちが敷設途中の線路を走る作業用の運搬車両を「トゥダナヌアッチュル(戸棚が歩く)Jなどとはやし立てながら追っていくこともあった。のぼこうばい急な上り勾配になっているところがあり、そこを通るときには人の乗り降りができるぐらいゆっくりとした速度で走っていた。一時期、ガソリンカーも走っていた。288 《間取り調査風景》-沖縄県営鉄道嘉手納線:嘉手納・野園・平安山・桑江・北谷・大山・真志喜・大謝名・牧港・城間・内問・安里・与儀・古波蔵・那覇の15駅があった。

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