北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ムンチャリナーにマーイサーがあった。125斤(75kg)、100斤(60kg)、82斤(49.2kg)、50斤(30kg)の4個があった。100斤のマーイサーは屋号ヒータイスー(兵隊主)が作ったものだった。話者によると、尖っていて持ちにくかったと百つ。[集落で行なう主な年中行事].旧暦2月2'""4日<ニングヮチャー(クシユクワーシー)> :昔はサーターヤーグミで3組に分かれて行なっていたが、その後、青プタつぷ年と年寄りの2組に分かれて行なうようになった。豚を1頭演し、ダイコンあその2組で分けていた。青年たちの場合は、大根の和え物を作る者や肉を煮る者など役割分担をしていた。2日間は男性のみで行なったが、3日目には男性がジューシーメーなどのごちそうを作り、女性を招待した。この日にサンミンワカシーもあった。.旧暦7月13'""16日<盆>: 1 3日がウンケーで、15日がウークイである。ユーアキウークイということで、夜通しエイサーをした。エイサーの打ち合わせや練習を7日から始め、クシグミのサーターヤーで練習していた。今年、ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)から、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)にエイサーをしに行ったら、次の年はシチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)がハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)にエイサーをしに来る。これをイーシンケーシンと言った。他集落からとうふのエイサーが来ると、舞って迎えた。そして、ゴボウ、豆腐、ウケーメーなどのごちそうを作ってふるまった。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)のエイサーが他集落に行っても同じように迎えられた。カジマヤーになっているので、ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)、クエ一シンパルヤードゥイヌグンヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、千原屋取、野固などのエイサーとおが通って行った。戦後はl回だけエイサーが行なわれた。.旧暦8月11日<ヤードゥイジュリー(ヤードゥイジンミ)> : きやくきょうぎ集落内の1か年の規約を協議した。トゥイパットや、他集落へ娘がゆいのうきん嫁ぐ場合の結納金の額は酒ー升なのか、お金なのかなど、さまざまな取り決めがあった。ヤードゥイヌヌチジンも集めた。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)は十・十空襲の被害はなかったが、米軍上陸時には屋号ナカドゥマイグワー(仲泊小): 36あたりの2'""3軒の家が焼かれた。その後、集落城は米軍にせっl.うへいしゃこわか接収され、兵舎を作るために、ほとんどの家が壊された。現在も嘉でな手納基地内で、ゲート1から入ってすぐのあたりとなっている。人々は他集落での暮らしを余儀なくされているが、戦前から団結のきょうゆうかいしんぽ〈強い集落で、現在も郷友会を中心に、親睦を深めている。283 -マーイサー:集落の広場などに置いてある大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。-ニングヮチヤー:目暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。・サーターヤーグξ:製糖の作業をする組。-ジューシーメー:炊き込みご飯。・サンミンワカシー:決算報告。・ウンケー:各家で祖霊を迎える盆入りの行事。迎え盆。・ゥークイ:各家で祖霊を送る行事。送り盆。・ユーアキウークイ:夜通しかけて祖霊を送る。・エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-ウケーメー:おかゆ。-カジマヤー:十字路。道が交差するところ。-千原屋取:現在の嘉手納町域にあった。エイサーが有名な集落だった。-野国:現在の嘉手納町域にあった。県営鉄道嘉手納線の野園駅があった。-ヤードゥイジユリー:集落の協議。・トゥイパット:鶏の放し飼いを禁止した決まり。・ヤードゥイヌヌチジン:募金。・十・十空襲:昭和19 (1945) 年10月10日、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。・嘉手納基地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。

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