北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)北谷町域北西側で、ハンザン(平安山)の北側、坂の上の高台に位置していた雇最イ集落。ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)を略してへイジョー(平上)と言うこともある。ガッコー、ちやたんそんエキ、ヤクパなどの公共施設があり、北谷村の中心地だった。戸数は61軒で、団結の強い集落だった。あざチュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)とともに、字浜川に属していた。ハマガー(浜J11)やチュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)と一緒に両主主、挙事誕崩筆、議事紛織などを行なっていた。イシジェーク一、キージエークーで有名だった。特にイシジェークーは漏染うが多く、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)やチユでLンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)から習いに来た弟子がた〈めじまいしぶしんくさんいた。久米島まで石普請に行っていた。スパヤーが、屋号スパヤーウンティングワー(蕎麦屋運天小): 20と屋号トウンドーシマプク(通堂島袋):48の2軒あった。てんぷらや今川焼きなども売っていた。屋号スパヤーウンティングヮー(蕎麦屋運天小)は5銭と1 0銭のそばだったが、2銭分売ってくださいとおばあさんに言うと、5銭分のそばと変わらないぐらいの量を作ってくれた。近隣集落からの客も多かった。雑貨商は5軒あり、品物は、那覇へ行ってぎょうLょうにん却をとったり、自転車で来る行商人から買ったりして、それを小売りしていた。近隣集落からも買いに来ていた。その他、行商としなかぐす〈そんあったアカペクーかって、中城村熱田から肉を赤箱に入れて担いで売りに来ていたが、病ぎのわんそんおおやま人でもいない限り、肉は買えなかった。宜野湾村大山のウヤマハーこんぷにぽしメーが昆布、煮干、お茶などを、ロシア人のニコライという人は洋たんもの服や反物などの行商をしており、ガッコーや屋号ニーケーシマプクとんぷ〈(二階島袋)などをまわっていた。頓服薬やマンチンタンなどの薬とやまおろ類は、富山からの行商人が各家庭に卸していたが、めったに飲まず、風邪を引いたらヨモギの汁を飲んで治していた。熱が出たら屋号イリヌジッチャク(西ヌ勢理客)のウフヤーのタンメーに針を突かでなおおやまいてもらった。重病になったら嘉手納の大山という医者に往診をたの頼んだ。アルメビョーインの医師は正式な医師ではなく、長評論だったので、大山医師の監督を受けて診療していた。普段、現金で診察代金を支払うことは出来なかったので、七月かあるいは正月に払っていた。移住当初はハマガー(浜)11)へ水虫みに行っていた。漏に汲んで約lkmの距離を運んでいた。その後、ほとんどの家にクムイが作られた。大体は丸い形だったが、屋号マツシマ(松島)のクムイは、4mX2mぐらいの長方形であった。282 -向上会:集落の産業を向上させるための会。優秀な人には賞状や賞品が与えられた。現在の産業まつりのようなもの。・学事奨励会:学童の勉強を励ます会。・農事奨励会:集落の中で農業を奨励する会。・イシジェーク石工。・キージエークー:大工.・石工道具として、フィチ(石を動かす長い鉄の棒)、ユーチ(小型のおの.荒削り用と仕上げ用の2種類ある)、ヌミ(のみ)、イヤ(石を削るくさび)、チーシ(重い木や石に、木や竹の柄を立てたもの)、大ハンマー(車径約5寸、重さ約20k g 、柄にはゲッキツを使用)、シーフィー(水平器)などがあり、クングワチクニチとトゥシヌユルーに、道具にも感謝した。仕事を休み、豚を潰して大きなお祝いした。大工の安全祈願である。・スパヤー:そぱ屋。・そばは、当時支那そばと言った。ガジマルを焼いて、その灰の上澄み水を使って作られる手打ちそばであった。三枚肉、かまぼこ、ネギなどがそばの上にのっていた。小さいじゃこでだしを取る。だしを取った後のものを、子どもたちは「カシグヮーください」と言って、盾のおばあさんから貰って食べていた。何の昧もしなかったが、苧よりも美味しかったと言う。・医介輔:医師不足を補うための制度。制限つきの医療従事者。・屋敷の中のクムイ:雨が降ったら溜まるように、屋敷の水が流れるところに作った。そこで野菜や苧を洗ったり、農具や手足などを洗った。1か年に1園、クムイの中の泥を出して掃除する。

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