北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)ヤーFゥイ北谷町域南端に位置する屋取集落。ケンドー沿いにあり、北側はぎのわんそんチャタン(北谷)、南側は宜野湾村に隣接していた。戸数105軒で、そのうちカーラヤーは26軒だった。集落名はチャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)だが、普通はチャタンヌメーと言うことが多かった。あざイシンダヤードゥイ(石平屋取)と同じく、地籍上の字は北谷にぎょうせいあさ.&:んりどくりつ属していた。昭和12 (1937)年に行政字北前として分離独立した。その後はキタマエと言うようになった。集落の組分けは、メ一ヤードゥイ、ナカヤードゥイ、クシヤードゥイの3組に分かれていた。クシヤードゥイはさらにアガリヤードゥイとイリヤードゥイに分かれる。イモ主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)にデンプンコージョーがあり、そこででんぷん芋の澱粉を作っていたので、工場に芋を売りに行くこともあった。畑以外に田んぼもあり、米も作っていた。また、チヤギーも多くやくItりいんあった。農業以外にも、荷馬車引き、人力車引き、役場吏員、大工、サンジンソーなどの職を持つ人たちもいた。サーターヤーが、集落の南側の屋号カカジ(嘉数):28の東側に1か所、集落の真ん中あたりの屋号ウフナカチ(大仲地): 50の西側に1か所、集落の東端に1か所の計3か所あった。それぞれ、南組、中組、東組に分かれて共同使用していたと思われるが、はっきりとした区分はわからない。せんこつ集落の人たちの墓はイートゥシにあった。洗骨を行なうので、墓は川沿いに造ることが多かった。イートゥシには、チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)だけではなく、チャタン(北谷)や伊さはま佐浜の人たちの墓もあった。ガンは、チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)所有のものがなかったので、チャタンサンカのガンを借りていた。昭和28 (1953)年にキタマエのものとして作られたガンがあったが、昭和5 5 (1980)年に北谷町教育委員会に寄贈され、現在は「北谷町手ほかんてんじ作り資料館」に保管・展示されている。カヤモーは川の両岸に多く、特に北岸側が多かった。川岸は語れやすく、畑はできないので、カヤモーとすることが多かった。フナウクイはアラファヌシーの上で行なっていた。きたまえ現在の北前区公民館敷地は、500"'600坪ぐらいの広さの沼地で、ウワンクーラーと呼ばれていた。アシデーク(セイコノヨシ)がたくさん生えていた。24 -ヵーラヤー:瓦ぶきの家。-チヤギー:田んぼの真ん中に盛り土をして畑としたもの。-サンジンソー:易者。・サーターヤー:製糖小屋。-洗骨:死後数年の聞に遺骨を取り出し、洗い清める儀式。-伊佐浜:現在の宜野湾市域にあった屋取集落。-ガン:寵。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。・北谷町では昭和28 (1953)年に沖縄市の火葬場を使用するようになり、従来の風葬から火葬へと移行したため、ガンは使われなくなった。・北谷町手作り資料館:町民の方々からの寄贈品や、町内遺跡からの出土品を展示した施設。夏休み限定で開館している。・カヤモー:屋根を葺くのに使う茅を生やしていた野原。・フナウクイ:見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。

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