北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
274/504

i小ハjレ名ヤクバヌアガリ|そぱヤクバの側を走るケンドーの東側を言う。ジュンサヌヤーの北側あたりである。ハマガー(浜)11)の人たちの畑が多くあった。→平安山ヌ上屋取のヤクバを見よ。|ヤクバヌメ-1ヤクバと屋号ウィーヌナカンダカリグワ一(上ヌ仲村渠小):21のイモ聞に広がる土地を言う。畑地で、土質が良く、芋やウージ(サトウキビ)、野菜などを作っていた。一部が小さな広場になっており、ヤクバを訪れた人の馬車や馬をつないでおくこともあった。→平安山ヌ上屋取のヤクパを見よ。|ウィーヌアタイ|集落北側の畑地一帯を言う。ヤクバの向かいとも言う。→平安山ヌ上屋取のヤクバを見よ。|ギーマンラ|クンチリミチの南側、ウィーヌシジのあたりを言う。地名の由来は不明。畑と山であり、畑ではトーフマーミ(大豆)を主に作り、その他アカマーミ(小豆)、ウージ(サトウキビ)、芋などを作っていた。山には松が生えていたので、麓は影になり、作物はあまりよく育たなかった。→平安山のハンザンウガンを見よ。I~ / t::'1 オータチャーヌシーとハマガーウガンの間の一帯。屋号ウィーヌナカンダカリグヮー(上ヌ仲村渠小): 21の西側あたりを言う。ハンザン(平安山)の人たちの畑が多かった。土質はマージであった。土が浅く、すぐ岩盤にあたる土地だったので、クラガーイあいまモ(芋の一種)やマージン(黍)などを主に作り、その合聞にトーマーミ(そら豆)、インローマーミ(えんどう豆)、デークニ(大根)ねなどを植えた。土が浅いので、デークニは下に根ざさず、地上に高く突きでていた。現在、外人住宅が建っている。270 《現地調査・嘉手納墓地内》-マージ:赤土質の土壌。マージでできた芋は小さいが美昧しい。

元のページ  ../index.html#274

このブックを見る