北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ハマガー(浜J11) 北谷町域西側、東シナ海に面した集落。テツドーが通る前は海岸線の砂浜が集落の近くまで来ていた。テツドー開通後、海岸線は西側に寄り、海からの波はテツドーの線路で遮られて、集落に打ち寄せることはなかった。水遊びはたいてい海に行っていた。戸数21軒からなる集落。戸数が少なく、行政上はハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)、チュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)も含めて字浜川となっていた。学事奨励会などは、この3つの集落で交替で行なっていた。村会議員は3集落から1人選出という割合だ、った。役場職員数は30人で、昭和15 (1940) ちやたんそん年前後の北谷村の人口は約16,000人、村民500人に対して、役場職員l人の割り当てだった。区長交替は2年ごとだった。ほとんどの屋敷にカーがあった。すべてチーガーで、深いところは2mぐらいあった。ニープガーはなかった。個人でカーを持つようになる以前は、イリガ一、メーヌ力一、クシヌ力一、クラ二一ヌクシヌカーの4つのムラガーを使用していた。これらのカーは、現存しているメーヌカーに「西之神井戸JI後之神井戸JI前之神井戸JI西後之神井戸Jとして合記されている。サーターヤーは、屋号メーヌウナファグヮー(前ヌ小那覇小): 2 の南側にあった1か所だけであった。集落の人たちで共同使用していた。集落の北西にはハマガーウガンと言う拝所があった。現在の国道58号線と国体道路の合流地点近くであり、木が生い茂っている。また、ハマガーウガンの南に隣接して「龍宮神」と「殿之神」おががあり、現在も拝まれている。現在、成人病検診センター沿いの道すなべを北方向へ進み、県営砂辺団地(15号棟)の道向かいにコーシピョー(孔子廟)と呼ばれる拝所がある。昔から拝まれている拝所だが、戦前からコーシビョーと呼ばれていたかは確かではない。チュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)とハンザン(平安山)の合組所の間に位置している。集落の人たちの墓はオータチャーヌシ一周辺に多く、シリーヌサクにも5~6基ぐらいあった。チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)やチャタン(北谷)のンマイーへ行って、モーアシビをしていた。[集落で行なう主な年中行事]ブタつぷ由.旧暦2月2日<シマクサラシ>豚1頭を潰し、その血を塗ったギキチャー(ゲッキツ)の枝を、道路の角や十字路、各家の門や四隅などに挿した。豚の骨は、集落の出入口に吊り下げたヒジャイナーにはさんだ。266 《間取り調査風景》-学事奨励会:学童の勉強を励ます会。.力一:井戸。・チーガー・つるべ井戸。・ニーブガー:ひしゃくで汲めるような浅い井戸。・ムラガー村の共向井戸。《合杷所》-国体道路:県道23号線国体記念道路《子L子廟》回モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線-歌-踊りなどをして楽しむ。・シマクサラシ:集落に悪疫が入つてくるのを防ぐための行事。-ヒジャイナー・左経りの縄。

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