北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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l匠・そ1;1:池。トーマヌカーの側にあった。深さは1mぐらいあった。ハンザン(平安山)は各家に井戸を掘ってあったので、特にイチを利用することはなかったが、子どもたちは水浴びをして遊んでいた。ウスクガジマル(アコウ)があり、池に影を作っていた。子どコイしいくもたちはその木から飛び込んだりして遊んでいた。また、鯉を飼育していた。|テーラグワーグムイ|ハンザンメーパルとハマガーメーパルの境界のハマガー(浜)11) 寄りにあった。海の方に向かい、曲がったところに水が溜まるが、普段はあまり水がなかった。大雨の後にしか水浴びをすることができなかった。とおそばとお人が一人通れるぐらいの小さな道が側を通っていた。せいち現在は整地されている。1湧水井戸圃ウーチヌ力一|イリー(伊礼)集落の北東側にある井戸。イリー(伊礼)の間取り情報によると、戦前、グングヮチウマチーおがあまごのときにハンザンヌルが拝んでいたと言う。雨乞いのときにも拝プタつぶそなむカーで、豚を潰して供えたと言う。ゎ現在も水が湧いている。目掘井戸⑨ ゆ一|屋号ヤマトゥシマグワ一(大和島小): 22の北東方向にあった井戸。l卜ーマヌ力一|屋号ウードゥグワー(小渡小): 34の南側にあった井戸。側にはイためいけチと呼ばれる溜池があった。作自|ナガサンニーヌハシ|ハンザン(平安山)とイリー(伊礼)の境界あたりに架かる橋。げんぞん現存している。257 《間取り調査風景》-グングヮチウマチー:旧暦5月に行なわれる農耕に関する行事。ノロ(神女)が祈願をささげる。・ハンザンヌル:平安山神女。平安山、伊礼、浜川、砂辺、桑江の5集落の祭柁を管轄していた。平安山の屋号ヌンドゥルチがヌルだった。《ウーチヌ力一》

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