北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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落の共同製糖小屋であるイリーグヮーヌサーターヤーを使用していた。普通は砂糖を平均10 ~ 1 5丁作るが、屋号メーマシは50丁ぐらい作っていた。|イーマガニクヌサーターヤー|イーマガニク(上間兼久)の一番東端にあったサーターヤー。1灰焼窯LAJ |フェーヤチガマ|Lょうやかまサンゴ礁を焼く窯。イーマガニク(上聞兼久)の屋号アシンミごがん(安次嶺): 22と屋号アワ(安和): 23の聞の道を海に向かい、護岸に突き当たったところにあった。サンゴを焼いたあとの灰を、砂糖作りや力一ラヤーのムチに使う。窯の周りには石がたくさん置かれていた。護岸が作られたのは昭和13 (1938)年頃で、フェーヤチガマは護岸が作られる前からあった。屋号ナーグシク(宮城)のはんじよう個人所有であった。繁昌していた。E禽おがグングヮチウマチーのときにハンザンヌルが来て拝んでいた。みきかか100~200年ぐらいのガジマルがあり、幹は4~5名でも抱えきれないほど大きかった。話者によると、キジムナーがいたと言ねもとう。ガジマルの根元にはウコールが置かれていた。1獅子屋禽|シーサーヤー|おさかわらシーサーを納めておく小屋。瓦ぶき屋根だった。横幅が1間半おくゆきで、奥行が1間ぐらいの長方形だった。戦後、シーサーヤーは残っていたが、中に納めていたシーサーはふくげん無くなっていた。復元したシーサーは戦前のものよりも大きい。1広場轡|クランモー|ちんじゅイリー(伊礼)集落の西南部にある小高いE。鎮守の森。集落のヂューグヤがくじ中心地である。拝拡があり、祭事の中心地でもある。十五夜や学事Lょうれいかい奨励会などもここで行なわれていた。マーイサーが2つあり、重さは100斤(60kg)と50~60斤(30~36kg)だった。そのマーイサーも戦争でなくなっ247 《間取り調査風景》-カーラヤー:瓦ぶきの家。・ムチ:しつくい。防風用として屋根の接合に多く用いられる。-グングヮチウマチー:旧暦5月に行なわれる農耕に関する行事。ノロ(神女)が祈願をささげる。・ハンザンヌル:平安山祝女。伊礼、平安山、浜川、砂辺、桑江の5集落の祭紀を管轄していた。平安山の屋号ヌンドゥルチがヌルだっfこ。-キジムナー木の精。・ウコール:御香炉。線香をたてる炉。・シーサー:獅子舞の獅子。《シーサーヤー》-学事奨励会:学童の勉強を励ます会。-マーイサー:集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。

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