北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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11馬車道|メーミチ|集落の前を南北に走る道。屋号ミーヤーグヮー(新屋小): 8からとお屋号ミーヤ一(新屋): 38を通り、ナルカーにぶつかるまでの範囲を言う。道幅は5mほどあり、荷馬車も通ることができた。|ナカミチ|集落の真ん中を南北に走る道。屋号ヒチャグイグヮー(ヒチャグイ小): 10から屋号タンパル(田原): 15までの範囲を言う。道幅はちが4mほどで、馬車もすれ違うことができた。|クシミチ|集落の後ろを南北に走る道。屋号ヒチャグイグヮー(屋号ヒチャグイ小): 10からメーマシヌサーターヤーまでの範囲を言う。道幅はちが4mほどで、馬車もすれ違うことができた。|ヤマダヌミチ|集落からヤマダへ行く道。屋号コーチグヮー(幸地小): 18の西側から続いていた。|力ンジャーヤーヌメーミチ|イーマガ二ク(上間兼久)の道。屋号イシジェークーカナグシク(石工金城): 36の北東側にあった空き屋敷の前の道を言う。この屋敷は大正初期まではカンジャーヤーだったが、その後空き屋敷となこわり、トートーメーだけが残されていた。そのため、怖い場所だった。1鉄道|ケービンミチ|軽便道。キシャミチとも言う。ケンドーと平行に走っていた。うんちんなは少しでも運賃を安くするために、那覇に行く場合はクェーヌメ一工かでなキ、嘉手納へ行く場合はハンジャヌウィー工キを利用していた。運賃は中学生の定期券は4か月で12円80銭であり、8割引きとなっていた。また、回数券は5割引だった。ハンジャヌウィー工キから嘉手納までは、大人料金で7銭だった。話者のl人は、汽車に乗らずに歩いて行って、浮いたお金で5銭のソパを食べたと言う。めったに食べることはなかったが、大盛りのソパは10銭だった。→桑江ヌ前屋取のクェーヌメ一工キを見よ。→平安山ヌ上屋取のエキを見よ。243 《クランモー》《獅子舞のサル》-カンジャーヤー.鍛冶屋。・トートーメー:祖先の位牌。《間取り調査風景》

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