北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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11山地|イリヤマ|大正・昭和初期頃に、所有者がクェー(桑江)の伊礼家から、イリー(伊礼)の屋号メーマシ(前升)に変わった。2000坪ほどある。|ソンヤマI[※編注:P349 r戦時中の上勢頭屋恥の地図に記載]ちやたんそん村山。北谷村の村有地であった。現在の北谷町身障者等援産施設のあたりである。|ティーラヌヤマ|ハマガーティーラヌヤマとも言う。1万坪ぐらいあった。現在の北谷スポーツセンターのあたりである。目谷間門7マタf集落の北東にあった谷問。ウシヌホーミと言う岩山があった。イモマツ畑地で、芋とサトウキビなどを作っていた。松とメリケンマーチュー(モクマオー)が生えていた。墓が多いところだった。1ifう〈うごうひなん戦時中は、ここに防空壕を作って避難していた。i潟lンナトゥグヮー|幅20mほどで、半分はナジチュー(ハイキビ)が生え、残りはまんちょう満潮になると海になった。トントンミー(トビハゼ)、アカガニあかがにグヮー(小さい赤蟹)などがたくさんいた。11県道|ケンドー|県道。ケービンミチと平行に走っていた。じゅうかんくにがみかL、どう西海岸を縦貫していた国頭街道が明治38 (1905)年にケンドーかいLゅうともなおうらいとして改修された。それに伴い、車の往来が自由となり、人力車や乗合馬車、荷馬車、人の往来も多くなった。ケンド一沿いには小料理屋が4~5軒でき、やがてイリー(伊礼)は“花のイリーグヮー"と呼ばれるようになった。あらかきLょうわうんこう新垣パスと昭和パスが運行しており、女性のパスガイドが乗ってかでないた。話者によれば、嘉手納へ買い物や遊びに行く場合などに利用していたが、バス停については覚えていないと言う。242 《聞取り調査風景》《獅子舞》-新垣平尾パス:戦前の乗合自動車。那覇~名護聞を運行。・昭和パス:戦前の乗合自動車。那覇~読谷山村喜名問、那覇~小禄~糸満~米須聞を運行

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