北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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イリー(伊礼)一ク一一一一一.「一ガ一一各一己-s・,,一-u、一嘆一.一一4一イ一上間兼久。イーマヤードウイとも言う。イーマは「上高」のことで、最初の入植者の屋号である。入植時期はわからない。戸数18軒で、そのうちカーラヤーは3軒であった。屋号タルーアワグワー(樽安和小): 34のカジマヤーがイーマガニクの中心地で、ウプガーであるイーマガニクヌカーやマーイサーなどがあった。土質は砂地とマージで、主な農作物は芋とサトウキビであった。ホンアザイリー(伊礼)本字ほどではないが、山の土が混ざって、良い土地であった。1河)11 トゥクガー|わ水の湧き出し口と、そこから流れる流れのことをトゥクガーと言う。橋が架かつており、その橋から下流はナガサと言った。水が一番きれいだった。イリー(伊礼)とハンザン(平安山)両集落の所有であった。匡互Eトゥクガーの下流を言う。橋が架かつており、その橋から下流をナガサと言い、上流はトゥクガーと言う。水がきれいだった。人が水浴びをしたり、家畜(馬・牛)に水浴びをさせた。タナゲ-(jll エビ)、イーブー(トビハゼ)、ンナジ(ウナギ)などがたくさんいた。|ナル力一|イリー(伊礼)とクェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)との境界を流れる川。アヒルを飼育していた。|クシヌ力一ラ|ソンヤマの方から流れてくる川。屋号アガリティーラグヮー(東照屋小): 6の東南側を流れ、ケンドーに突き当たったところからケンドー沿いに南へ流れ、屋号アシンミ(安次嶺):22の北側に沿ってテツドーへ向かつて流れる。さらに、フヱーヤチガマの手前でまたそそ南へと折れ、海へと注いでいた。241 -ヵニク:砂地。地名に多くみられる。名護市大兼久、西原町兼久など。-カーラヤー:瓦ぶきの家。・カジマヤー:十字路。道が交差するところ。・ゥプガー:産湯に使う水を汲む井戸。・マーイサー:集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。・マージ:赤土質の土壌。マージでできた芋は小さいが美味しい。《間取り調査風景》《獅子舞》

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