北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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せいえんかい制で、ほとんどの家で行なわれていた。1日目は宴会があり、2日目は宴会の後に、ニングヮチャ一ヤードゥからサーターヤーまで「唐ばんそう船ドーイ」を伴奏に道ジュネーをした。ニングヮチャ一ヤードゥは毎年変わるので、決まった道順というものはなかった。子どもたちにはチビカタマヤー(オオバギ)の葉に肉を入れたものが配られた0.旧暦2月<ニングヮチウマチー>:ハンザンヌルが来て拝んでいたが、集落の人たちにはあまり関係がなかった。.旧暦7月7~15日<旧盆>:エイサーは昭和14 ~ 1 5 (1939 ~ 40)年頃までは行なっていた。女性は入らなかった。現在の委主品シンパルヤードワイ町域にあった千原屋取と交流があった。-旧暦8月15日<シーサーモーイ>:十五夜。クランモーで獅子まいあ〈えさばらごこくほうじょうかね舞が行なわれた。悪疫払いと五穀豊穣を祈る。昔は鉦を鳴らした。クルチ「大観口説」に合わせて、サル2匹が舞い、寝ている獅子を起こす。バカにされたと思った獅子はサルを追っかける。サルは木に逃げる。サルをつかまえることのできない獅子は歯ぎしりをしたりする。獅子舞の型は大正15 (1926)年に完成した。獅子の重さは頭が5.6斤(3.4k g)で、全体の重さは18.3斤(11kg)ある。これだけの重さを支えながら、夏の夜に15~20分間舞うので、大変な重労働だった。獅子舞の後は、他集落の青年たちと沖縄相撲をした。獅子舞は、イリー(伊礼)、チャタン(北谷)、シナビふっかっ(砂辺)の3集落にあったが、現在、復活しているのはイリー(伊礼)とシナビ(砂辺)である。せっt,.ヲ〈ねえ集落域は、米軍に接収されキャンプ桑江内となっていたが、集落の人たちの努力により、昭和57 (1982)年には拝所であるクランモーがいち早く返還された。また、平成15 (2003)年には、残る土地も返還され、現在は土地区画整理事業が進められている。戦前とおの地形は変化したものの、獅子舞など、さまざまな行事を通して、郷友会のつながりは強い。239 -ニングヮチャ一ヤードゥ:ニングヮチャーのときに一時的に集会所にあてられる家。・サーターヤー:製縮小屋。・唐船ドーイ:民謡のIつ。国道ジュネー:行事などのとき、芸を披露しながら道を練り歩くこと。-ニングヮチウマチー:旧暦2月に行なわれる農耕に関する行事。ノロ(神女)が祈願をささげる。・ハンザンヌル:平安山神女。伊礼、平安山、浜川、砂辺、桑江の5集落の祭犯を管轄していた。平安山の屋号ヌンドゥルチがヌjレだっfこ。・エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。・千原屋取:現在の嘉手納町域にあった。エイサーが有名な集落だった。・大観口説・琉球古典音楽の1つ。-キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。米海軍病院がある。《間取り調査風景》

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