北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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イリー(伊礼)北谷町域西側、東シナ海に面した集落。集落の人たちはイリーグヮーと言うことが多い。イリー(伊礼)本字21軒、南側のイーマガニク(上問兼久)という屋取集落18軒の合わせて39軒からなる集落であった。そのうちカーラヤーがイリー(伊礼)に2軒、イーマガニク(上間兼久)に3軒あった。イモ主業は農業で、芋、サトウキビ、米などを作っていた。それ以外ゃくぱりいんにもマチヤ、ユーフルヤ一、客馬車、荷馬車、人力車、役場吏員、しサンンンとうふゃいとな石工、大工、竹細工、帽子クマ一、三昧線作り、豆腐屋などを営む人たちもいた。また、ケンド一沿いにはサカナヤーもあった。イリー(伊礼)には、共同井戸がクシヌ力一、クランモーヌ力一、クランモーヌフェーヌカーの3か所あり、イーマガニク(上間兼久)にはイーマガニクヌカーがあった。現在、これらのカーの神はクランモーヌフェーヌ力ーに合記されている。また、集落内のほとんどあとの家にカーがあった。そのlつだと思われるカーの跡が、平成14 いれいlまるいせきはんいかくにんちょヲさ(2002)年に行なわれた伊礼原B遺跡範囲確認調査で発見された。せっかいがんきりいLいしづこうけい石灰石の切石の石積みで、井戸の口径は1mで、北面には広さ1l'n ほどの洗い場が作られていた。これは屋号タルーチチンミグワー(樽チチンミ小): 13のカーであると思われる。サーターヤーは、イリー(伊礼)、イーマガニク(上間兼久)ともに1か所ずつあった。共同使用しており、馬は持っている家が無料で貸し出していた。借りた人は作業が終わった後、馬を水浴びさせてから返していた。砂糖は平均10 ~ 1 5丁ぐらい作っていた。屋号メーマシ(前升)は個人でサーターヤーを持っており、50丁ぐらい作っていた。マーイサーは、クランモーに50~60斤(30~36kg)ぐらいのものと、100斤(60kg)ぐらいのものの2つがあった。イーマガ二ク(上間兼久)は、中心地であるカジマヤーのところに45斤(271{g)、65斤(39kg)、95斤(57kg)の3つのマーイサーがあった。イリ一(伊礼)、ハンザン(平安山)、ハマガー(浜川)の3集落共同で運動会を行なった。その場合、それぞれの集落名の頭文字を取ってイハバマ(伊平浜)と言った。[集落で行なう主な年中行事]・!日暦2月2~3日<ニングヮチャー(クシックィー・クスップタつぷクィー)>:豊年祭。クランモーで豚を潰してごちそうを作り、30 歳以下のワカカタと、30歳以上のトシカタに分かれて筆答をした。その宴会をする場所をニングヮチヤ一ヤードゥと言う。大きな家、アシヤギの広い家、ミーヤーなどで、行なわれるが、基本的には論蓄238 《間取り調査風景》-力一ラヤー:瓦ぶきの家。-マチヤ:J古。・ユーフルヤー:風目屋。・帽子クマー:アダンの葉やこよりで=帽子を作る内職。・サカナヤー:料理屋。-ヵー:井戸。《発掘調査で出土したカーの跡》-サーターヤー:製糖小屋。-マーイサー:集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。・カジマヤー:十字路。道が交差するところ。-ニングヮチヤー・旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。・ワカカタ:若者の組。・トシカタ:年寄りの組。・ニングヮチャ一ヤードゥ:ニングヮチャーのときに一時的に集会所にあてられる家。・アシャギ.農村などで、母屋の前にある離れ。メーヌヤーとも百九-ミーヤー・新しい家。新築した家。また、あらたに分家した家。

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