北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
24/504

ウシモー(闘牛場)があり、農閑期に闘牛が開催されて近隣の人々を集めていた。いとまんそのほか、旧暦5月4日は、糸満漁業の流れを汲むクェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中ちやたんそんかいじんさい屋取)の漁師たちがハーリースープ(腿龍船競争)を行なった。北谷村はこの祭を海神祭さんだいまつりほじよきんずもうと呼んで北谷村三大祭のーっとし、補助金を出していた。この日は沖縄相撲やムラ芝居も行なわれて夜までにぎわいをみせ、北谷町内外の見物客が集まったと言う。北谷町域の戦後の状況けいかんこのような生活と景観は、沖縄戦と、そへへんようの後の60年という月日を経て大きく変容ちゃたんちょうし、現在の北谷町の風景に至った。生活と景観の変容が起こったのは、社会の仕組みが変わったことや、経済成長、生活様式の変化などに原因がある。日本や沖縄各地と同じように、工業化、道路整備、住宅地・商業地開発などが、北谷町の風景を変える大きな要因となった。げきれつしかし、北谷という土地に激烈な変化をもたらし、現在も大きな影響を持ち続ける、最大にして直接的な要因は、米軍によるせん申う占有的な土地利用である。沖縄戦終結直後、北谷町域の90%以上せっc.ヲが米軍に接収された。やがて米軍用地内では戦前の土地利用形態を無視した土地整備と施設建設がすすめられ、家屋敷、田畑、道路、鉄道などの人工物も、河川|、岩山、E陵などの自然景観も、大規模な改変にさらされた。また、従来の居住地を接収された住民の大部分は、北谷町域内外の別の地域に移住せざるを得なかった。戦後数年の聞に、北谷町域内の台地上部の土地がわずかに返還されたのせまで、従来は家屋敷の分布が少なかったこの狭い地域に住民が流入し、新しい住宅地を形成していった。ぎょっせいくきたまえきたたまこの新しい住宅地の分布は、現在の行政区という概念につながっている。北前区、北玉じばるじゃーがるえぐちとうぱるくわえかみせいすなべみやぎみはま区、宇地原区、謝苅区、栄口区、桃原区、桑江区、上勢区、砂辺区、宮城区、美浜区という11の行政区は、住民を居住地域によって区分したものである。行政手続きや地域活動ちえんの多くが行政区を単位として行なわれ、地縁的コミュニティとして機能している点が戦前の集落に似ている。しかし、行政区の持つ空間的範囲と構成員は戦前の集落とはまったくさかいしょうめつ異なるもので、戦前にあった23の集落は、物理的には沖縄戦を境に消滅したといえる。しかし、23の集落それぞれの共同体意識は現在も続いている。同じ集落出身の人々ときょうゆうかいきゅヮあざこしゆかいその子孫たちが、郷友会や旧字戸主会と呼ばれる組織を作って交流を続けており、祈願行事や伝統芸能の継承に取り組んでいる。郷友会を組織していない集落でも、同じ集落だった家庭の名簿を作成したり、拝所を再建するなどして、集落という共同体の概念を共有し、継承している。20

元のページ  ../index.html#24

このブックを見る