北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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卜ーバルヤードゥイ(桃原屋取)北谷町域東端、東シナ海を望む高台に位置する屋取集落。越来村と隣接しており、つきあいが盛んだった。トーバルヤードゥイ(桃原屋取)とグィークトーパルを合わせてアガリ卜ーバルと言うこともあった。戸数は46軒で、そのうちカーラヤーは4軒だった。話者によると、集落の組分けはアガリムティやイリムティなど、いくつかに分かれていたようだが、はっきりした区分は覚えていないと言う。主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。竹細工も行なわれていた。また、大工の棟梁、教員、ヤブーなどをしている人たちもいた。マチヤが1軒あったが、扱っているのが菓子類ぐらいだったので、サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)のマチヤを利用することが多かった。おきなわし共同井戸は現在の沖縄市にある卜ーバルガーであった。ワクで、ニーブで汲むことができた。トーバルヤードゥイ(桃原屋取)の集落内には井戸が少なかったので、よく水汲みに行っていた。朝からわかみず晩まで、水汲みの人が絶えなかった。正月の若水も、トーバルガーから汲んでいた。個人井戸としては、屋号ウフヒャーグングヮー(大比屋根小): 3に18尋(27m)の深さのクルマガーがあった。ちょっとした溜め池は各家にあり、野菜を洗ったり、手足を洗ったりするのに使っていた。竹細工に使う竹を漬けたりすることもといてんあった。また、カーラヤーの家には、屋根から樋を伝わってきた天すいた水を溜める水タンクがあった。サーターヤーは屋号アガリイラファ(東伊良波): 24の北東方向にえはあわせちょっと行ったところにあった。作った砂糖は、那覇や泡瀬に運んでいた。嘉手納の製糖工場ができてからは、トゥルクを利用して、工場に持って行くようになった。拝所はインナーで、クスックィ一、ヤイサーの出発時、クングワおがひチクニチーなどに拝んでいた。碑やウコールなどはなく、石垣を目印にして拝んでいた。インナーは何かと集落の人たちの集まり場ふてんまくう所として使われていた。その他、集落外の普天間宮やヒャーナーなどに拝みに行くこともあった。ガンヤーは集落の北端にあり、赤瓦屋根で、土壁造りだった。ガンは一度担ぐと、墓まで一度も下ろすことができなかった。どうしても交代という場合には、ガンを地面に下ろさずに担いだまま交代した。亡くなった人の近い親戚はガンを担がなかった。ガンが家とおの前を通る場合には、悪い霊が入ってこないようにという意味で、門の前にススキを2~3本地面に置いた。トーバルヤードゥイ(桃原226 《間取り調査風景》-カーラヤー:瓦ぶきの家。-ヤプー:鍛灸師。-マチヤ:J吉。-ワク:湧き水。-ニープ:ひしゃく。-クルマガー:滑車につるべ縄をかけて水を汲む井戸。・カーラヤー.瓦ぶきの家。・サーターヤー:製糖小屋。・嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。・クスックィー:農繁期のあとにする骨休みの行事。・ヤイサー(エイサー):旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。・クングワチクニチー:旧暦9月9日に菊酒を飲むなどして、健康・長寿を願う。・ウコール:御香炉。線香をたてる炉。・普天間宮・琉球八社の1つ。宜野湾市普天間にある。・ヒャーナー:首里から逃げてきて山里で子を産み育てた美しい娘を杷ったと伝えられている。普天間宮へ遥拝する場所である。国ガンヤー:翁を納めておく小屋。・ガン:議。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。

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