北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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よる家屋敷の建築、石工による橋や墓の建造、漆喰製造などがあった。ただし、これらの手工業を専業としていた家は少なく、農業と兼業していることが多かった。機械を使った工業としては、昭和17 (1942)年頃にクェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の北端ぐんじゅひんにデンプンコージョ-(澱粉工場)が建設された。経営者は日本本土の人で、軍需品としイモて芋を原料とするデンプンを製造していたという。ちやたんそん商業活動もそれほど盛んではなかったが、北谷村役場に隣接して建てられたソンエイシチヤ(村営質屋)や、チャタン(北谷)のサンギヨークミアイ(産業組合)による貸し付きんゅうくわえけといった金融活動がみられた。また、桑江駅前には、旅館や食堂、大きな商底、写真館、おきなわLばいろてんていてつ地方巡業の沖縄芝居劇団のための露天劇場、馬車の休憩所や蹄鉄屋などが立ち並び、北谷町域の他集落とは一風ことなる、にぎやかな景観をつくっていた。ただし、ほとんどの集落では、マチヤと呼ばれる小さな商屈が集落内に2"'3軒散在しているくらいだった。常せつぎょうLょうこまもの設の庖舗以外に、北谷町内外から行商が来て、魚・肉・薬・石油・小間物・衣類などを売り歩くこともあった。しかし、日々の生活に必要なもののほとんどは、各家庭ごとに自家生産でまかなわれるのが普通だった。自給自足の暮らしとはいえ、金銭収入には重きがおかれ、各家庭では金銭の取得と貯蓄ききんきょうこうに熱心だった。一方では、農作物、特にサトウキビによる収入は不安定で、飢僅や恐慌にこんき・うよって困窮におちいる農家が多かった。このような状況を背景に、明治末期から昭和にかけての沖縄県では日本本土への出稼ぎや海外への移民が盛んになったが、北谷町域も例外しんせきではなく、若者たちが日本本土に数年間出稼ぎに出たり、一家あるいは親戚ぐるみで海外に移民するといったことが、ごく一般的におこなわれていた。これに徴兵による人口流出も加わり、昭和初期から沖縄戦直前の時期にかけての北谷町域では、青年~壮年層の人口が減少する傾向があった。日々の営みには苦労も多かったが、辛さを慰める楽しみもあった。若者たちは夜になると広場などに集まって、男女入り交じって歌ったり踊ったりした。また、運動会や発表会といった学校行事は、集落の人々みんなで楽しむものだった。そして、時節にめぐってくる年中行事は、人々にとって特に大きな楽しみとなっていた。年中行事で最も大きなものは、作物の収穫期、特に製糖期の終わり頃に作業の終了を祝う行事であった。北谷町域内では旧暦2月2日頃に行なわれることが多く、方言でニングワチャーとか、クスックィーと言う。人々は、祖先や集落内の重要な拝所に祈願を捧げ、2'"3日のあいだ、ごちそうを食べたり、歌い踊ったりして楽しみのかぎりをつくした。ほうねん他にも、旧暦6月末頃に豊年感謝として行なわれる綱引き、旧暦7月の盆、旧暦8月えん1 5日頃のジューグヤ(十五夜)などの行事の折には、集落の人々が綱引きやエイサー演s かぶひろうずもう舞、歌舞の披露や沖縄相撲といった娯楽に興じた。どの集落にも、このような集まりに使われる広場があった。チャタン(北谷)、クェー(桑江)、シナビ(砂辺)の3集落には、それぞれ200'"300m ほどの長さのンマイー(馬場)があり、綱引きなどの行事に使われたほか、ンマスープ(馬比べ)に使われていた。牛同士を闘わせるウシオーラセー(闘牛)も大きな娯楽のひとつだった。シチャシードゥち・うかんヤードゥイ(下勢頭屋取)とウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)の中間には大きな19

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