北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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長く雨が降らない場合には水位が下がっていた。サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)とトーバルヤードゥイ(桃原屋取)の人たちで利用していた。周囲は畑だったので、畑仕事の帰りに手足や農機具を洗ったり、家畜(馬・牛)に水浴びをさせていた。11湧水井戸唖l卜ーバルガー|集落の西側にあった。話者によると、明治28 (1895)年生まれの方も、いつ頃作られたのかわからないと話していたと言う。水汲みカンカラーで汲むことができた。敷地内に手足を洗う小さな井戸もあり、深くないので、ここでもすぐ水を汲むことができた。水がかj回れるということはなかった。トーバルガーから水が豊富に流れ出して、卜ーバルガーラとなっており、その水を利用して田んぼが広がっていた。学校帰りにエビやカニを捕って遊んでいた。現存しているが、戦後、コンクリートで少し上げられ、1m50cmぐらいの深さとなった。そのため、ロープをつけないと水を汲むことができなくなった。また、敷地内の小さな井戸は埋められた。現在も力一ウガミをしている。1製糖小屋6 1サーターヤー|共同製糖小屋。サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)はサトウキビを作る人は少なく、7~8軒ぐらいだった。そのため、ここ1か所なはだけで賄えた。サーターヤーで製糟した砂糖は那覇へ運ばれた。けいびんクェーエキから軽便鉄道を使うこともあれば、直接馬車で那覇へかでな持って行くこともあった。サトウキビを嘉手納製糖工場に出すことヤマチもあり、山内まわりで馬車で運んでいた。トロッコ道はなかった。工場ヘサトウキビを出す場合には、出来上がった砂糖を受け取るのではなく、サトウキビ代が支払われていた。屋号リーグンニー(リーグン根)のおじいさんが、サトウキビを運ぶ日程調整やサトウキビ代を渡す仕事をしていた。→桑江ヌ前屋取のクェーエキを見よ。力ミヤーI[※編註:P198 r現在の謝苅~桃原」の地図に記載]戦前、サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)には拝所がなかった。そやまざとおがのため、山里のハーナームイに拝みに行っていた。しかし、遠くて不便だということで、戦後、サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)221 -カンカラー:空缶。《トーパルガー》-カーウガミ:井戸の神様を拝む。-軽便鉄道:沖縄県営鉄道。・嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。-ハーナームイ:首里から逃げてきて山患で子を産み育てた美しい娘を紀ったと伝えられている。普天間宮ヘ遥拝する場所である。

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