北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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道・歯詣器量で、住民はもっぱらケンドーと呼んでいた。徒歩の人、人力車、荷馬車や客Lせん馬車、乗り合いパスなどがさかんに行き来した。ケンドーの支線として、北谷町域の東側、ぎのわんそんぎのわんLなかぐすくそんきたなか寸すくそんごえ〈そんおきなわL宜野湾村(現在の宜野湾市)、中城村(現在の北中城村)、越来村(現在の沖縄市)に向かう県道や村道が数本あった。他に、集落内や耕地の聞を走る無数の生活道があった。きどうけんえいてつどうかでなせん軌道交通としては、大正11 (1922)年に開通した県営鉄道嘉手納線があった。嘉手納とお線は、那覇市の古波蔵駅を起点に、沖縄本島西海岸側を通って嘉手納駅にいたる路線で、ちやたんちょうちゃたんくわえへんざんつ北谷町域内には北谷駅、桑江駅、平安山駅があった。普段はサトウキビや黒糖の積みおろもんち・うばかし、通学客の乗り降りがあり、ときにはシーミー(清明)の時期の門中墓参りの客や、出しんせき稼ぎや出兵の見送りで那覇に向かう親戚一団で混み合うこともあった。なかでも桑江駅は、ごえくそん越来村など近隣地域から那覇や嘉手納に行き来するための交通要所のーっとなっていて、利用客も比較的多かった。鉄道とは別の軌道交通路として、嘉手納製糖工場に向かう荷馬車用のトロッコ軌道もあふせっちゃたんちょうった。トロッコ軌道は越来村を中心に何本も敷設されていたが、その一部が北谷町域にもうんぽん走っていて、サトウキピの運搬に利用されていた。ヤンパルせんさか海上交通は、鉄道の開通で大幅に縮小していたものの、以前は山原船での輸送が盛んに行なわれていた。クェー(桑江)の沖にあった大きな入り江が港代わりに利用され、山原たきぎすみから運んできた薪や炭などの林産物が降ろされたり、那覇向けの黒糖を積みこんだりと、さまざまな物品が山原船によって運搬された。戦前の北谷町域の暮らしちゃたんちょうイモりっち戦前の北谷町域は農業が主産業だった。おもな産物はサトウキビと芋で、立地によってそぎいプタヤギかち〈は米作も行なわれていた。自家消費用に競菜の栽培、豚・山羊といった食肉用家畜の飼育も行なわれていた。農作業や運搬用に牛馬を飼育していた家もあった。芋は日々の主食であり、自家消費にあてられる割合が大きかった。一方、サトウキビは、かんきんほとんどが換金された。サトウキビの換金には二種類の方法があった。各集落に数軒あっせいとうごゃなはかでなたサーターヤー(製糖小屋)で製糟した黒糖を那覇に出荷するか、嘉手納にあった製糖工すいたい場にサトウキビを買い取ってもらうかである。昭和10年代には、製糖業自体が衰退したり、嘉手納製糖工場への持ち込みが増加したため、サーターヤーが使われなくなった集落もあった。しかし、買い取りや運搬費用によって利益が減ることを嫌う農家も多く、沖縄戦直前まで、サーターヤーでの製糖作業は北谷町域のあちこちでみられる光景だった。農業以外に、ごく小規模ながら漁業、手工業、商業活動も行なわれていた。戦前の北谷町域では漁業にたずさわる家は少なく、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)やシナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)に数軒しかなかった。これら漁師家庭の男性たちは、海岸に発達した広いイノー(礁池)に小舟を出して、追い込みゃ投げ網、素潜りなどで、魚貝を捕っていた。女性たちは、収穫物を近隣の集落で売り歩いたり、家屋敷かんちょうで販売したりした。漁師以外の一般家庭では、干潮時にイノー(礁池)内にイジャイ(漁たり)に行って、員やタコ、エビ、小魚などを捕ってその日の食車の足しにする程度だった。工業も、もっぱら家庭あるいは個人単位の内職として行なわれる小規模なもので、機械めんあさばLょうとうふLょうゆLょうちゅうに頼らない手工業がほとんどだった。綿・麻・芭蕉などの織物、豆腐製造、醤油製造、焼酎・晶わもりかじなべぶたかご泡盛などの酒製造、日常品を製造・修理する鍛冶、鍋蓋・ざる・寵などの竹細工、大工に18

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