北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)ヤードゥイ北谷町域東端、東シナ海を望む高台に位置する屋取集落。東側はトーバルヤードゥイ(桃原屋取)と隣接している。そのため、サチジョ一ヤードゥイのことをイリ卜ーバルと言うこともある。戸数24軒で、そのうちカーラヤーが7軒あった。集落は2つに組分けされた。南側の12軒がメーンダカリ、北側の12軒がクシンダカりとなる。話者によれば、サーターグミや綱引きなどもなかったので、特に組単位で何かをしたというわけではなかったと言う。しゅりなはしぞくサチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)は、首里・那覇から来た士族きたなかぐすくそんヒジセンマプタへいみんいじmうではなく、現在の北中城村比嘉・島袋からの平民による移住集落でちやたんちょうある。北谷町内では他に例がなく、特殊な屋取集落であると言える。話者によると、移住時期については100歳以上の方々に聞いてもわからなかったと言う。しかし、移住するときの候補地としてヤジパルもあがっていたが、最終的にこの場所を選んだという話が伝わっていると言う。主業は農業で、サトウキビ、芋、豆類などを作っていた。しかし、あまり土地が良くないので、南洋への出稼ぎも多く出ていた。マチみそヤは2軒あり、そのうちの屋号マチヤ(庖): 22は、米、日未噌、缶詰類、酒、タバコなどを売る大きな屈であった。サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)の人たちだけではなく、卜ーバルヤードゥイ(桃原屋取)の人たちも買い物に来ていた。もう1軒は、屋号リーグンニーグヮー(リーグン根小): 15のメーヌヤーを借りていた屋号ナカガワ(中)11) : 16である。小さな庖だった。個人のクルマガーが3か所あった。集落は高台に位置していたので、17"'18mぐらい深く掘っていた。水がj回れることはなかった。つるべ縄は、藁を編んで作っていた。また、カーラヤーである4軒には個人の水タンクがあった。瓦の屋根から樋を伝わってきてんすいたた天水をタンクに溜めていた。サーターヤーはlか所だけで、屋号サンラーサチジョー(三郎崎門):21の西隣にあった。作った砂糖は、馬車やクェーエキからテツかでなドーで那覇へ運んでいた。また、馬車で嘉手納の製糖工場へ運ぶこともあった。工場へ出す場合には、出来上がった砂糖を受け取るのではなく、運び込んだサトウキビの代金が支払われていた。はいしょやまざとおが集落内に拝所はなく、山里のハーナームイに拝みに行っていた。戦後はイーヌモー近くに力ミヤーを作り、そこにハーナーの神をお迎えして把っている。現在のうぐいす谷墓地公園のあたりに、個人のカヤモーがあり、ふか屋根の葺き替えのときに、面積でいくらというふうに売っていた。214 -カーラヤー:瓦ぶきの家。-サーターグミ:製糖の作業をする組。《聞取り調査風景》-マチヤ:庖。-メーヌヤー:農村などで母屋の前にある離れ。アサギグワーとも言う。-クルマガー・滑車につるべ縄をかけて水を汲む井戸。-カーラヤー瓦ぶきの家。-サーターヤー:製糖小屋。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。-ハーナームイ:首里から逃げてきて山里で子を産み育てた美しい娘を杷ったと伝えられている。普天間宮ヘ遥拝する場所である。-カヤモー:屋根を葺くのに使う茅を生やしていた野原。

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