北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
211/504

りには墓が多かった。ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)とトーバルヤードゥイ(桃原屋取)の人たちの墓が入り混じってあった。きかん日本軍が掘った立派な壕があった。壕は海に向かつており、機関銃が設置されていた。話者によると、壕掘りの徴用もあったのではないかと言う。たまちゃたんちょう現在の町立北玉小学校の東側で、北谷町のタンクの南側あたりである。1郡道|ジャーガルミチ|県道だった。下の方は郡道。補修工事には、県から2人の工夫が来ていた。チャタン(北谷)の人だった。ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)の人たちが補修工事に出ることはなかった。道幅は約3mで、馬車が一台通るぐらいの幅だった。荷馬車だっとおたらすれ違いできたかもしれないが、あまり通らなかった。道にはしやりんあと馬車の車輪の跡が残っていた。あざあざジャーガルミチの東側は字伝道、西側は字桑江だった。現在の県道24号線のことで、宇地原区公民館から桃原あたりぐらいまでを言う。一一フ一: トヒ一「レ一一-aJ一元一道E,‘F'h-Aω''一.. 一、‘,一ジャーガルミチの一部。相当急な勾配の坂道で、石畳道だった。がんじよう頑丈に造られていた。話者によると、道の補修に出たことはなく、とお話を聞いたこともないと言う。馬車は通らなかった。林道である。ジャーガルビラはイニンビーで有名で、旧暦8月15日には、ジャーガルビラの途中で青年たちが待っていた。しかし、話者は見たことがないと言う。イニンビーは、喜友名のアヒラービラグワーのぼから来て、ヤカビヌヒラを上り、ジャーガルビラに来るという話がある。クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)の聞取り情報によると、じらいうとお米軍上陸前には、地雷を埋めて誰も通さないようにしていたと言つ。ぁ現在の「北玉小学校入口」バス停留所から上がっていく坂道のことである。セメントで固められている。|ヤカビヌヒラ|集落の南西方向にあった坂道。現在のミハマタクシーの近くにぜつべきあった。絶壁みたいなところから人がやっと通れるぐらいの坂で、しらひがわお白比川の方に下りて行くことができた。階段のように作られていた。207 -徴用:国家(軍)が国民を強制的に動員し、作業させること。-工夫:道路。鉄道などの土木工事の作業員。《間取り調査風景》-ィニンビー:ひとだま。死者の遺念が火となって現れるもの。

元のページ  ../index.html#211

このブックを見る