北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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(桑江ヌ前屋取)・クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)・クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)・ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)・サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)・トーパルヤードゥイ(桃原屋取)・ハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)・チュンナーグワ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)・シナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)・ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)・シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)の15集落りなはに吻うLょ〈かいたくみんである。この15集落は、1700年代後半以降、首里・那覇などから入植してきた開拓民せっちが作り上げた集落である。拝所は開拓初期からのものが多く、開拓民みずから設置したビゎジュル(土地を守るとされる神)や、湧き水や井戸を拝所とすることが多い。また、集落ホンアザ内に拝所を置かず、別の集落にある拝所を祈願する場合もある。本字と連続するように平地に展開していた集落もあれば、本字から遠く、E陵上部に家屋敷や耕地が散在していた集落もある。戦前の北谷町域の景観沖縄戦が始まる前までの北谷町域は田んぼや畑の広がる農村地帯だった。町域の西側は海に面した平地で、田んぼイモや芋畑やサトウキビ畑が一面に広がり、そいえやしきの耕地のなかに家屋敷がかたまって集落をなしていた。町域の東側は台地で、山林が多く、薪を取るのに利用された。台地と平地が接するあたりは入り組んだ谷間地形をなしていて、谷の底に田畑が作られていた。また、台地の斜面から台地上部にかけてところどころに比較的平坦な土地があり、山林を切り開いて畑や家屋敷が作られていた。ゎ農業用水や生活用水は、湧き水や川からすいり得ていた。北谷町域は水利に恵まれた環境で、台地にしみ込んだ雨水が斜面や平地に湧き出し、川|となって涜れ出て、より低地の田畑をうるおしていた。川|は、いつも水が流れている川と、雨が降ったときだけ水が流れる川があり、その他に、耕地に引水・排水するための用水路も作られていた。湧き水や井戸の水は家事や飲料に用いることが多かった。平地の地下水脈は浅く、井戸しおけまを掘るとだいたい1""'6mくらいで水が出た。海に近い場所では井戸水に潮気が混ざることもあった。台地上部は地下水脈が深くにあり、8""'15mほど掘らないと水が出なかった。場所によっては4Om 近い深さの井戸も掘られた。このような台地上部の地域は水のてんすい便が悪いため、天水をためて飲料水にあてるところも多かった。けいぴん交通網は陸路中心で、人や馬車が行き来する道路と軽便鉄道があった。もっとも大きな道路は、那覇を起点に沖縄本島西海岸沿いを北上して名護に向かう県17

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