北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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でガンを解体した。ガンが通つてはいけないという道はなく、通りやすい道を通っていた。墓は、他の集落の人たちの墓と入り混じっはかぶしんで、ウージパルやトゥラジなどにあった。墓普請は集落の人たち全員で行なっていた。葬式は坊さんよりも、ウクルンバルに住んでいたニンブチャーに頼むことが多かった。マーイサーはマーイサーモーに置いてあった。現在の謝苅公園のすぐ下、一本松給油所のところと、宇地原区公民館のあたりに個人有地のカヤモーがあった。きたたまじんじょうかよ学校は、チャタン(北谷)にあった北玉尋常高等小学校へ通っていた。学校へはケンドーを通って行くと遠いので、クンチリ道や山道から通っていた。クェーエキへ行くときはジャーガルミチを利用していた。風呂はほとんど川ですませていた。風呂屋へ行くのは年に1~2回ぐらいだった。話者によると、風呂屋はチャタン(北谷)とクェー(桑江)の2か所にあったが、クェー(桑江)の風呂屋しか利用したことがないと言う。[集落で行なう主な年中行事].旧暦2月<ニングヮチャー>アガリ・ナ力・イリの3つの組に分かれて行なっていた。.旧暦7月<エイサー>:空手の型のエイサーだった。ビジュルをおが拝んでから出発した。集落内を回るだけではなく、他の集落に行くこともあった。話者によれば、ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)やクェ一(桑江)からも、ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)に来たことがあったと言う。ちゃたんちょうせつcOヲきょじゅうきょ戦後は、北谷町全域が米軍に接収されたなかで、いち早く居住許かちいき可地域となり、ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)の人たちだけでなく、帰る場所を失った多くの人々が移り住んだ。203 -ニンブチヤー:葬式のときに鉦をたたき、念仏歌を歌う人。ときには経文を読み、僧の代わりをつとめた。・マーイサー集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。・カヤモー:屋根を葺くのに使う茅を生やしていた野原。・北玉尋常高等小学校.北谷尋常高等小学校の分教場て、あった。大正3(1914)年に北玉尋常小学校として開校し、大正6(1917)年に高等科を設けて北玉尋常高等小学校となった。・クンチリ道:近道。-ニングヮチヤー:旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。・エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。《ビジュルの洞》《マーイサー》《マーイサー》

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