北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
206/504

ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)ヤドウイけわ北谷町域、ほぼ中央に位置する屋取集落。町内で最も険しい地形に立地している。戸数49軒で、そのうちカーラヤーは9軒であった。集落はアガリ、イリ、ナカの3つの組に分かれていた。話者によたばひがあらかきおおみちなかみねみやざとめると、田場・比嘉・新垣・大道・仲嶺・宮里などの姓はアガリ、目どるまなこうきゅうなうらたみ訟とめどるま取真・名幸・喜友名・宇良などの姓はイリ、田港・目取真などの姓しんせきはナカというふうに、親戚同士で分かれていたと思われるが、はっきりとは覚えていないと言う。ニングヮチャーのときにだけ、この3つの組に分かれていた。イモあっか主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。日用雑貨を扱うマチヤが2軒、易者が1軒あった。かんばっか個人井戸が7か所あったが、ニーブガーが多く、阜魁にはj回れていた。そのため、共同井戸のイーヌカーと卜ーヤマヌカーを利用することが多かった。共同の水タンクがあった。補助を受け、屋号ナーザトゥグヮー(宮里小): 32と屋号メーヌミドゥルマ(前ヌ目取真): 28の2か所といてんすいの個人屋敷内に作られた。瓦の屋根から樋を伝わってきた天水をタンクに溜めていた。タンクの形は四角で、6畳ぐらいの大きさてっきんで、高さが1m80cmぐらいだった。鉄筋の代わりにヤンパルダキ(リュウキュウチク)を入れたセメント造りだった。話者によるこわと、タンクを作った時期は覚えていないが、取り壊したのは昭和5 4 ~ 5 5 (1979 ~ 80)年頃だったと言う。水タンクは水道がで、きるまで利用されていた。アガリグミとイリダミのサーターヤーがあった。集落の真ん中しんせきの道を境に、東側がアガリグミで、西側がイリグミであった。親戚同士で、10名ぐらいのサーターグミを作っていた。1回に作る砂糖は2~3丁ぐらいであった。ウージガラを燃料としていた。サーぶんかいじくぎかまターグルマは、製糖時期が終わると分解した。軸木は製糖用の釜をす据えていた小屋に納め、サーターグルマはそのままそこに置いていた。サトウキビを嘉手納製糖工場へ持って行くこともあった。朝1回、晩l回の一日2回、馬車で運んでいた。ジャーガルモーに3体のビジュルがあり、旧暦2月2日、旧暦8おが月15日、旧暦11月15日に拝む。しょ申うガンはジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)所有のものがなかったので、クェ一(桑江)から借りていた。話者によると、お金を出しそうかて借りていたのではないかと言う。ガンは喪家まで持ってきてから組み立てた。担ぐのは4人で、箱を持つ人が1人ついた。ガンを一度担ぐと、墓まで下ろすことはできなかった。墓まで行き、そこ202 -カーラヤー:瓦ぶきの家。-ニングヮチヤー・旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。・マチヤ:底。-ニープガー:ひしゃくで汲めるような浅い井戸。-サーターヤー:製糖小屋。-サーターグミ:製糖の作業をする組。・ウージガラ:サトウキビの絞り殻。・サーターグルマ:サトウキビを圧搾する装置。・嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。・ビジュル:霊石として記られる石。・ガン.記。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。

元のページ  ../index.html#206

このブックを見る