北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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北谷町の概況グO O 側んがO ちやたんちょう北谷町は沖縄本島中部の西海岸に位置のわんしおきなわしきたなかし、南側は宜野湾市、東側は沖縄市と北中ぐす〈そんかでなちょう城村、北側は嘉手納町に接して、西側には東シナ海が広がっている。東西に最大約4.3km、南北に最大で約5.9kmの幅があり、総面積は13.62k m'である。面積の53%ほどが米軍によって使用されており、米軍用地以外は住宅地や商業地がほとんどである。北谷町の地形は、東側は標高50~ 100m ほどの台地、西側は標高5m前後の海に面した平地となっている。西側の平地の多くは米軍のキャンプや基地が占めるが、東側のE陵斜面にあたる部分や丘陵上部は返還され、住宅地になっている。また、国道5 8号線より西側の海岸沿いも返還され、埋立地とあわせて、新しい住宅地および商業地となっている。かんせん幹線道路は、国道58号線が海岸に近い平地を南北に走っているほか、東西に走る県道が3本ある。沖縄市に向かう県道23号線(国体道路)と県道24号線、そして北中城村に向かう県道130号線である。戦前の北谷町域の集落ちゃたんちょヲかでなちょっちゃたんそん沖縄戦以前は、現在の北谷町域と嘉手納町域とをあわせた地域が「北谷村」というひとつの行政区画だった。北谷村役場は、はじめは疏球王府時代の北谷間切のバンジュ(番所)があったチャタン(北谷)におかれ、明治44 (1902)年にハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)に移されて、沖縄戦が始まるまで同じ場所にあった。近代の北谷村には全部で50近くの集落があり、そのうち、現在の北谷町域には23の集落があった。この23の集落は、成り立ちの違いから、近世期以前に成立した古い集落と、近世期に成立した開拓集落の2種類にわけることができる。昭和初期頃の北谷町域では、古い集落は「本字(ホンアザ)J Iムラ」などと呼ばれ、開拓集落は「屋取(ヤードウホンアザヤードゥイイ)Jと呼ばれていた。この章では、古い集落を「本字」、開拓集落を「屋取」と呼ぶことにする。ホンアザ本字は、チャタン(北谷)・タメーシ(玉代勢)・リンドー(伝道)・ク工一(桑江)・イリー(伊礼)・ハンザン(平安山)・ハマガー(浜)11)・シナビ(砂辺)の8集落である。この8集落はすべて1700年代前半までには成立していたとみられ、古い聖域を算出として業てんかいめていた。家屋敷や耕地のほとんどが標高o~ 50m以下の平地に展開していた。ヤードゥイ屋取は、チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)・イシンダヤードゥイ(石平屋取)・ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)・ヤジヤードゥイ(屋宜屋取)・クヱーヌメ一ヤードゥイ16

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