北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
198/504

あると言う。エイサーの練習や、60斤(36kg)と130斤(78kg)の2つのマーイサーが置かれていた場所でもある。くわえはいしょ現在はキャンプ桑江内に新しく拝所を作っているが、「石敢富」ではなく、「諸大明神」と書かれている。これは、お坊さんが名づけたものである。桑江馬場。ケンドーより東側で、クヱー(桑江)とクヱーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の間にあった。沖縄馬の競争を行なっきそくらていた。速さだけではなく、歩き方も競っていた。鞍や馬の首に飾りをつけ、きれいだった。金持ちしか競走馬を持っておらず、クェー(桑江)の屋号イリー(伊礼)が持っていた。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)にはl人もいなかった。ク工一(桑江)けんぶつだけではなく、他集落からも参加したり、見物に来ていた。チャタンンマイー(北谷馬場)・シナビンマイー(砂辺馬場)・ヌザトウンマイー(野里馬場)・ジキランンマイー(瑞慶覧馬場)と、近くにたくさん馬場があり、相当盛んだった。サンンンまた、クェーンマイーは、夜には三昧線を持った青年たちが集まり、モーアシビをする場所だった。話者によると、大正生まれの人たちがよくやっていたようだと言う。現在のキャンプ桑江第2ゲート隣にある基地内の学校のあたりである。→桑江のクェーンマイーを見よ。11寵屋' |ガンヤー|寵屋。クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)にあった。クェ一(桑江)、クヱーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の4集落の人たちで使用していた。かっガンは前に2人、後ろに2人の合計4人で担ぐ。一度担いだら人を交代することができず、肩を変えることもできなかった。ニンブばしょヲふチヤーを先頭にして、ガンを担いだ4人と、芭蕉布をかぶった5'"6人の泣き女がその後に続いた。クェーヌクシ一ヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の人たちの墓は、集ちゃたん落の東側にあった。現在のちゅうざん病院あたりや県立北谷高等学校の西側や南側などである。山手側にあった。ガンを担いで墓まで194 -エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集熔の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-マーイサー:集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをするo・キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。米海軍病院がある。-モーアシビ.農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむ。・キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。米海軍病院がある。-ガンヤー:癒を納めておく小屋。-ガン:記。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。・ニンブチャー:葬式のときに鉦をたたき、念仏歌を歌う人。ときには経文を読み、僧の代わりをつとめた。-芭蕉布・沖縄を代表する織物。糸芭蕉の繊維で織られる。

元のページ  ../index.html#198

このブックを見る