北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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工場として機能していたのは、昭和17 ~ 1 9 (1942 ~ 44)年の2か年ぐらいだった。昭和19 (1944)年以後は、工場生産を止めて日本陸軍(石部隊)の兵舎となっていた。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)は、この工場があったために十・十空襲を受け、集落の人が何名か亡くなった。こわ戦後は、工場の建物はすぐ壊されて、テントが建てられていた。1製糖小屋⑫ lサーターヤー|共同製糖小屋。屋号ウフナーザトゥ(大宮里): 18の北側にあったサーターヤー。集落が小さいため、このサーターヤーlか所だけで賄えた。特にサーターグミはなかった。サーターグルマを回すために、一頭の馬を一日中使っていた。小学校5~6年生から馬ウーヤーをしていた。屋号サカヤチニングヮー(酒屋知念小)の土地だったが、借料は取らず、砂糖を作るときに燃やした薪の灰をもひりょうダイズらっていた。灰は肥料となり、大豆を植えるときなどにかぶせるとじくぎ実りが良くなる。製糖時期が終わると、サーターグルマの軸木はシロアリ(白蟻)よけのためにクムイに漬けていた。サーターヤーの敷地内にはゲーン(ススキ)が生えていたので、それでサーターヤーふの屋根を葺いていた。かでな戦争前には、あまりサーターヤーを使用しなくなり、嘉手納製糖工場に出すことが多かった。屋号ウフチニン(大知念)の馬車などで運んでいた。ちゃたんちょう現在の北谷町役場水道課の西側あたりにあった。|ムラヌサーターヤー|屋号ナンヨーチニングワー(南洋知念小): 5の南隣にあったサーターヤー。話者によると、クェ一(桑江)のサーターヤーだったと言い、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の人でも、ここの近くの人たちは使用したかもしれないと言う。しかし、この周辺にサトウキビ畑は少なかった。1拝所禽|ウガンジュ|拝所。屋号ウフチニン(大知念): 15の西側の道に拝所みたいな場所があった。そこはT字路だが、カジマヤーと言うこともある。高いしがんとうさは60 c mぐらいで、幅が40c mぐらいの石敢首があり、旧暦おカf2月2日のクスックィーのときに拝む場所であった。昭和3(1928) 年生の話者が小学生の頃に、ここの草刈りや掃除をしたことが193 -石部隊:第62師団独立歩兵第1 2大隊の通称。-十・十空襲:昭和19 (1944) 年10月10目、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。-サーターグミ:製糖の作業をする組・サーターグルマ:サトウキピを圧搾する装置。・馬ウーヤー:馬を追って、歩かせる役。-クムイ:池。沼。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。-カジマヤー:十字路。道が交差するところ。・石敢嘗:中国起源の除災招福の石柱。・クスックィー:農繁期のあとにする骨休みの行事。

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