北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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みはま現在の県営美浜高層住宅のあたりにあった。ド閃|イリーグヮーメーヌハシ|ハシとも言う。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)とイリー(伊礼)の境界から流れるナル力ーとケンドーが交差するところに架かっていた橋。コンクリート造りで、幅も広かった。40~らんかん50cmぐらいの欄干もあった。このイリーグヮーメーヌハシから下流は入り江になっていたのでンナトゥグヮーと言う。→桑江のイリーグヮーヌメーヌハシを見よ。区ヨハイスイコーに架かっていた橋の1つ。屋号カマーアワグワー(カマ一安和小): 11の南東側にあったコンクリート造りの橋。昭和たま9 (1934)年頃に作られた。橋の下には、ちょっとした水溜りがあり、そこで家畜(馬・牛)に水浴びをさせていた。→桑江のハシグヮーを見よ。1駅争|クェーエキ|桑江駅。クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)にあった沖縄かでな〈わえつなは県営鉄道嘉手納線の桑江駅。砂糖を積み込んだり、那覇へ行くためごえくみさとそばに、越来や美里からの人々も利用していた。クェーエキの側には、ほかんそう二砂糖樽を保管する倉庫があった。駅周辺には庖も多く、にぎやかだった。→桑江ヌ前屋取のクェーエキを見よ。1工場b|デンプンコージョー|でん澱粉工場。昭和17 (1942)年頃に作られた。話者によると、澱ぷんぐんじようひん粉を軍事用品に使うために作られたらしいと言う。芋からj殿粉をちゃたんそん作っていた。北谷村内だけではなく、村外からも馬車で運んで来ていた。社長は日本本土の人だった。従業員は沖縄の人たちもいたようだったが、機械が全部やっていたので、従業員はあまりいなかった。工場の建物は、コンクリートではなく石の板のようなものでできていた。クェーエキの荷物置き場と同じような材質だった。話者によると、工場は力ヨーダヌクシヌクムイの水を利用していたようだと言う。192 《間取り調査風景》-沖縄県営鉄道嘉手納線:嘉手納・野国・平安山・桑江・北谷・大山・真志喜・大謝名・牧港・城間・内問・安里・与儀・古波蔵・那璃の15駅があった。

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