北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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そうかかっ喪家からガンを担いで墓まで行く道と、その帰り道は道順を変えていた。墓は集落の東側、山手側にあった。現在のちゅうざん病院ちやたん近くや県立北谷高等学校の西側と南側などにあたる。屋号ウフチニン(大知念): 15の西側の道に、60斤(36kg)と130斤(78kg)の2つのマーイサーが置いてあった。でんぷんぐんじようひん集落の北端に、澱粉を軍事用品として使うために作られたデンプイモちやたんそんンコージョーがあった。芋から澱粉を作っており、北谷村内だけではなく、他の集落からも芋を運んできていた。昭和17"-19(1942 "-44)年頃までは稼動していたが、それ以降は生産を止めて、日本軍の兵舎となっていた。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)は、この工場があったために十・十空襲を受け、集落の人が何名か亡くなった。[集落で行なわれる主な年中行事].旧暦2月2日<クスックィー(ニングヮチャー)>:屋号ウフチいしがんとうおがプタつぷニン(大知念): 15の西側の道にある石敢嘗を拝む。豚を一頭潰したり、天ぷら、豆腐、タマナーイリチャーなどのごちそうを作った。ぜんもダイコンサンンンそれらのごちそうを膳に盛って、真ん中に大根の葉を飾る。三昧線ひlまいLょを弾きながら、ヤードゥから拝所まで道ジュネーする。ヤードゥは大きい屋敷を持ち回りで使っていた。男性のみが参加する。話者によると、以前はメーンダカリとクシンダカリの2つに分かれて行なっていたらしいと言う。.旧暦6月<綱引き>:クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)にはなく、クェ一(桑江)の綱引きを見に行った。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)はクェー(桑江)の北側なので、綱引きに参加する場合には北側の綱を引いていた。話者によると、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)は南側の綱を引いたかもしれないと言う。.旧暦7月<エイサー>:男性のみ参加する。他集落へ行ったり、ンンF、ルヤードゥイ他集落から来たりすることもあったらしい。千原屋取から来たこともある。エイサーの練習は、屋号ウフチニン(大知念): 15の西側の道でやっていた。昭和19 (1944)年からは青年も少ないので、やらなくなった。せっしゅうくわえ集落域は米軍に接収され、キャンプ桑江内となっていたため、戦前の地形は変化してしまった。現在は土地が返還され、土地区画整ちやたんちょう理事業が進められている。北谷町役場西側一帯であり、北谷町の中心地として、新たに生まれ変わろうとしている。187 -ガン:高。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。-マーイサー:集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。-十・十空襲:昭和19 (1944) 年10月10日、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。-クスックィー:農繁期のあとにする骨休みの行事。-タマナーイリチャー:キャベツ妙め。-ヤードゥ:一時的に集会所にあてられる家。・道ジュネー:行事などのとき、芸を披露しながら道を練り歩くこと。-エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。・千原屋取:現在の嘉手納町域にあった。エイサーが有名な集落だった。-キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊墓地。米海軍病院がある。

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