北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)ヤドゥイ北谷町域西側、東シナ海に面する屋取集落。集落の南側はクェー(桑江)、北側はイリー(伊礼)と隣接している。戸数42軒で、そのうちカーラヤーが6軒あった。集落名はクェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)だが、略称として、クェーヌクシ(桑江ヌ後)、クェークシ(桑江後)、クシヤードゥイ(後屋取)、クワクシ(桑後)と言うこともある。クェーヌクシヤードゥイ(桑在ヌ後屋取)の人や近隣集落のあいだでは、クちねんシヤードゥイと言うことが多かった。また、知念姓が多いため、他の集落からチニンヤードゥイ(知念屋取)とも呼ばれていた。クェー(桑江)の周りには、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)をはじめ、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の屋取集落があった。その中でも、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)はクェーエキや庖などでちやたんそん有名だったため、北谷村以外の人から出身を聞かれた場合には、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)だと答えることもあった。北谷村内の人に聞かれた場合には、クシヤードゥイで通じていた。主業は農業で、その他にはマチヤグヮーが2軒と漁業に携わる家がl軒あった。屋号サカヤチニングヮー(酒屋知念小)が自転車を持っていた。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)においては、自転車はこの1台だけであった。1-----2m掘れば水が出てくるので、ムラガーや水タンクなどはなく、各家に井戸があった。つるべで汲み、その縄は1m50cm-----2mぐらいの長さだった。サーターヤーは屋号ウフナーザトゥ(大宮里): 18の北側にあった。この1か所だけだったが、小さな集落なので十分賄うことができた。しかし、戦争前にはあまり作らなくなり、屋号ウフチニン(大かでな知念)の馬車などで、嘉手納製糖工場へ持っていくようになっていた。屋号ウフチニン(大知念): 15の西側の道に拝所のような場所があった。高さ60c m、幅40cmぐらいの石敢嘗があり、旧暦2おが月2日のクスックィーのときに拝んでいた。昭和3(1928)年生まれの話者が小学生の頃、そこの草刈りや掃除をしていたと言う。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)内で拝む場所はここだけであった。ガンヤーはクェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)にあり、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェー(桑江)の4集落共同で使用していた。186 -カーラヤー:瓦ぶきの家。《聞取り調査風景》-マチヤグワー:庖。-ムラガー・集落の共同井戸。-サーターヤー:製糖小屋。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。-石敢賞:中国起源の除災招福の石柱。・クスックィー:農繁期のあとににする骨休みの行事。-ガンヤー:寵を納めておく小屋。

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