北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
186/504

の話者によると、昭和12 (1937)年頃まで、クェー(桑江)、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の4集落合同でムラ芝居をしていたと言う。11寵屋' |ガンヤー|クェー(桑江)、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェーヌクシヤードゥイ(桑そうか江ヌ後屋取)の4集落で使用していた。ガンは喪家で組み立て、墓まで4名で担いで行った。人の家の前で休んではいけなかった。ガンは墓で解体してから持ち帰って、ガンヤーに納めた。ガンヤーは崖のへこみに小屋を建て、その前に石積みをしてあるという簡単こわな造りだった。ガンヤーのところは、怖いのであまり行かなかった。現在のまつしま歯科のあたりにあった。→桑江ヌ前屋取のガンヤーを見よ。1墓圃|イーンバ力|縁側がついている墓。屋号ジャチン(座喜昧)の墓だった。ジョーが3つあるように見えるので、ジョーミチャーパカと言う人由もいる。庇があり、15名ぐらいでも雨に濡れることはなかった。掘り込み墓で、表はンナトゥグヮ一石を使っていた。2基あったが、1基は、県立北谷高等学校建設のときに土砂に埋もれてしまった。1標木容|ティーチマチャー|クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)の南端近くにあった松の木。シーグヮーがあり、その北側斜面から生えていた。松は若者2人で抱きかかえるくらいの大きさだった。昭和18 (1943)年頃に土地の所有者によって伐採された。ぜつべき松が生えていたシーグワーの南側は絶壁になっていて、ガマがあり、そこに骨があった。シーグヮーは戦後、米軍住宅が作られたとくずきに崩された。くわえきmうよう現在、キャンプ桑江内で、球陽交通の向かいあたりとなる。→桑江ヌ前屋取のティーチマーチューを見よ。182 -ムラ芝居:集落の人たちが演じる芝居。-ガン:寵。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。-ガンヤー:禽を納めておく小屋。《現地調査風景》-ジョー;門。-ンナトゥグワ一石:具志頭村港川で採石される黄褐色の石灰岩。粟石。-シーグワー:岩。-ガマ:洞窟。ほら穴。-キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊墓地。米海軍病院がある。

元のページ  ../index.html#186

このブックを見る