北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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をはさんで夕方まで、馬勝負が行なわれていた。速さだけではなきそく、歩き方も競っていた。ひげを生やし、クンジーを着た年寄りがしんぱんきそくら審判をしていた。沖縄馬を競わせる。鞍や馬の首などに飾りをつちゃたんそんかでなよみたんけ、きれいだった。話者によると、北谷村外の人、嘉手納、読谷、中城からも来ていたのではないかと言う。金持ちしか競争馬を持っておらず、クェー(桑江)では屋号イリ一(伊ネυが持っていた。クェーンマイーの他にも、チャタンンマイー(北谷馬場)・シナビンマイー(砂辺馬場)・ノザトゥンマイー(野里馬場)・ズケランンマイー(瑞慶覧馬場)と、近くにたくさん馬場があり、相当謹んだった。だえんクェーンマイー内にはマーイサーがあった。話者によると、楕円形とやや丸形のものの2つは覚えていると言う。別の集落の人が、マーイサーを自分の集落へ持って行き、持ち帰れるなら持ち帰ってみろという風に勝負することもあった。すなばてつ[まう他にも、クェーンマイー内には砂場や鉄棒があった。クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の屋号ナカチグヮー(仲地小)の前すんかくに鉄棒があった。昭和15'" 1 6 (1940 '" 41)年頃に、五寸角ぐすぎざいらいの杉材やパイプなどで作られた。高いのが1つ、中ぐらいのがlつ、{ffいのが3っと、言十5つぐらいあった。自転車に乗って遊んだりもした。自転車はクェー(桑江)集落に2"'3台ぐらいあった。しばふサンシンきれいな芝生があったので、夜は三昧線を持った青年たちが集まり、モーアシビをする場所でもあった。話者によると、大正生まれの人たちがよくやっていたようだと言う。くわえクェーンマイーは、現在のキャンプ桑江第2ゲート隣にある基地内の学校のあたりとなる。→北谷・砂辺のンマイーを見よ。1広場建設|クルマナー|集落の北東方向にあった広場で、ンブFガーの反対側にあった。|アシビナーギー|クェーンマイーの南端、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の屋号メーヌヤー(前ヌ屋)と屋号トゥクーマージャ(徳マージャ)の間あたりに、大きな平たいガジマルがあった。クェーンマイーより70"'80cmぐらい上がったムイグヮーだった。10坪ぐらいの広さがあった。そこで相撲を取ったり、かくれんぼをして遊んだ場所だった。話者が6"'7歳ぐらいの頃に、ムラアシビをしていたのを覚えていると言う。クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)181 -クンジー:藍染の着物。-マーイサー・集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。《現地調査風景》-モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむ0・キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊墓地。米海軍病院がある。.ムイグヮー:圧。築山。・ムラアシビ:歌・三味線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。

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