北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|サーターヤ-1共同製糖小屋。屋号アワ(安和): 15の東側にあったサーターヤー。クシンダカリの人たちで共同利用していた。|サーターヤ-1屋号イリー(伊礼): 36の北側にあったサーターヤー。話者によると、あったという話は聞いたことがあると言い、屋号イリー(伊礼)の個人所有だったようだと言う。|サーターヤ-1クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の聞取りによると、クェ一(桑江)のサーターヤーでムラヌサーターヤーとも言っていたと言う。クェーヌクシヤードウイ(桑江ヌ後屋取)の屋号ナンヨーチニングワ一(南洋知念小)の南隣にあった。話者によると、このサーターヤーの近くの人はクェー(桑江)の人たちと一緒に使用したかもしれないと言う。しかし、この周辺にサトウキビ畑は少なかった。→桑江ヌ後屋取のムラヌサーターヤーを見よ。1拝所禽|二一ヌファ|そliナルカーの水源地のあたりで、トントングムイのすぐ側にあった拝所。高さ1m、奥行60c mぐらいのセメント造りの洞だった。Lゆっせいくんじんおが昭和13 ~ 1 4 (1938 ~ 39)年頃に、出征軍人が拝みに行くようになったので、もっと大きい桐に作り直した。平成元(1989)年頃、他の拝所を二一ヌファに移してきて合間所となった。→桑江ヌ後屋取のトントングムイを見よ。11' ? /1 集落の北方向にあった拝所。ちょっと盛り上がって、丘みたいになっていた。その周辺は下がっていて全部畑だった。話者によると、農業の神さまだったのではないかと言う。卜ゥンの本体は、石のかたまりで、それを四角い平たい石で三方を囲み、ウコーを置けおがるようにしてあった。ニングヮチヤーの1日目、旧暦2月2日に拝んでいた。トゥンの先まで馬車が入れる道があった。工事のときの砂利などを積んで運んでいた。ちやたんちょう現在の北谷町役場水道局の建物の近くとなる。179 己~轟轟孟詞《合組所》-ウコー:御線香。.ニングヮチャー:旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。

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